2000年11月10日「市橋隆雄さんを囲む会 講演会」(三重県亀山市にて) P2

 皆さんこんばんは。市橋隆雄でございます。

 お話を始める前に、まずお礼を申し上げたいと思います。
 この講演会の話が持ち上がったのは、先ほど片岡さんからありましたように、わずか1週間前です。そして、そのわずかのあいだに、仕事の合間を縫って、貴重なお時間を割いてこの日のために準備してくださった、お一人お一人にお礼を申し上げたいと思います。
 それから、今夜ここにお集まりいただいた大勢の皆さんにも、お礼を申し上げたいと思います。
 どうもありがとうございます。

 さて、私の話というのは、亀山に育った一人の腕白坊主が、なぜアフリカに行くようになり、そしてアフリカでいったい何をしているのかというお話です。

 久しぶりに会った亀山の友人たちの記憶に残っている私というのは、先ほどもありましたように、足が速かったなあというようなことでしょうか。――じつはこれは逃げ足が速かったんですね(笑)。
 この季節になると、柿とか栗とかいっぱいなりますね、それをよその庭に忍び込んで両手一杯に持ってさっと逃げる……。あるいは、一人暮らしのおばあさんの留守宅を狙って、台所に忍び込んで、鍋だとかお釜だとかすりばちだとかを井戸に投げ込んでさっと逃げ去る。……それから、何処のお寺とはもうしませんけど、お墓に入り込んで墓石を押し倒したり、そこの愛宕山の下にバスが通っておりましたが、斜面の木陰に隠れて赤土をバスに投げてさっと逃げたり。
 こういう感じで、非常に屈折した少年時代の悪行を言えば、きりがありません。

 なるほど、それで自分がやってきた悪行を償うのに、お前は西洋坊主になったんやなアと言う人がありました(笑)。
 西洋坊主というのは、専門用語で言うと牧師といいます。
 私の職業は牧師です。クリスチャンです。アーメン屋です。……ラーメン屋ではありません(笑)。
 どうしてそうなったかといいますと、これは自分のやってきた悪行を償うためというよりも――いや、もしこの場に、昔迷惑をかけた方がおられましたら、この場でお詫びいたしますが……、とにかく、このアーメン屋になったということは、今日お話する、アフリカの人々に出会ったということがあるのです。

 念のために申し上げますと、この日本、つまり島国に住んでいる人は、海の向こうで何かやっていると聞くと……とくにアフリカなんて聞きますと、すごいというか、何か自分で自分に魔法をかけてしまってその本人の実像がはっきり見えないということがあります。けれども、海の向こうで生きているからって、ちっとも偉くはないんです。
 私たちの身体はひとつしかありません。だから、一ヶ所でしか生きられないわけです。
 何処で生きるかということは、おひとりおひとりが決断されることで、アフリカで生きても日本で生きても、それぞれが貴重な一つ一つの人間の人生だと思います。
 ただ、何処で生きるかを決断するということは、その人がどういう人と出会いまたどういう人生の経験をしているかによるわけで、私の場合はたまたま、アフリカで出会った人たちと一緒に生涯を生きるのが私の人生だと決断したからです。


 さっきからアフリカアフリカといっていますが、どうしてアフリカって言うか後存知の方はいらっしゃいますか。
 これは、ケニヤで聞いても誰も答えられません。
 物の本によりますと、これは、ギリシャ語の「アフリケ」つまり「寒さの無い国」、それからラテン語で、「太陽の光が一杯ある」という意味の「アプリカ」、この二つが一緒になってアフリカと呼ばれるようになったのだそうです。
 ですから、最初にアフリカを「アフリカ」と呼んだ人は、おそらく地中海側の北の方だけを知っていたのではないかと思います。
 実際、私はエチオピアとかケニヤとかウガンダとか赤道の近くのアフリカに行きましたけど、非常に寒いですね。赤道の下は寒いんです。で、ヒョウが降る。そう言うと、ある人は「さすがは野生動物の国ですね」なんていいましたが(笑)。ほんとにひょうきんな人です。
 とにかく、赤道の下は非常に寒いです。そして、こんな小石ほどのヒョウが屋根に降る。

 このアフリカって言うのは世界で2番目に大きい大陸で、アフリカの中には50以上の国があります。そして、一つ一つの国の中に部族と呼ばれるグループがある。ケニヤの場合は47くらいあります。
 その部族というのは、三重県人、滋賀県人、愛知県人がひとつの国を作っているというんじゃなくて、日本人、韓国人、中国人、台湾人、インド人たちがひとつの国を作っている、そういう感じです。
 これは非常に驚くべき事実であるわけです。ですから、そういう部族同士の争いが、アフリカでは非常に大きな問題になっている。そういうことがあるのです。

 また、アフリカというのは、非常に遠いです。地球儀で見ても、また、日本がアフリカをどう知っているかという意味でも、非常に遠いです。

 私が住んでいるナイロビは、今この時間に日本を去ると、着くのはちょうど今くらいの時間になります。つまり、丸一日かかるということです。船で行くと、横浜から貨物船で1ヶ月かかります。
 時間差は6時間ありますから、今はケニヤは1時25分です。
 しかも、アフリカのニュースというのはなかなか日本で報道されません。
 皆さん、アフリカのニュースについて、日本でお聞きになったのは何のニュースでしょうか。多分エボラ熱ですか。エイズですか、そう、エイズもありますね。
 アフリカには新聞社の特派員がいて、いろいろなニュースを日本に送るのですが、なかなか日本で新聞に載りません。
 日本では、アメリカ・ヨーロッパ・アジアに関心がありますから、そちらの方が優先されて、アフリカの記事はなかなか載らない。アフリカのことが大きく載るのは、たくさん人が死んだとか…そういう大事件がないと日本の感心はアフリカのことに向かないんですね。

 私の友人で、共同通信の特派員の方が――6年前にルワンダから出た難民のキャンプを取材するために飛行機で行ったところ、その飛行機が墜落して彼は殉職しましたけど――その彼がいつも言っていたことは、「人々の関心は去る、しかし悲惨は残る」と。
 83年にエチオピアで大飢饉があって、日本からもたくさん毛布が送られました。それから、ソマリアの内戦があって、たくさんの人が死んだり難民となってケニヤに入ったりしました。それから、ルワンダで94年に50万人以上の人が殺されました。
 そういう時は日本でも報道されて、自衛隊の人たちが、ルワンダなんかに入るわけです。でもそのときだけで、今は皆さん何が起こっているか後存知無いでしょう。相変わらず飢えがあるし、人々は戦いをしています。
 ですから、人々の関心は向くけれども、日がたつと関心は薄れてしまう。でも悲惨は残りつづけるのです。
 自分はそういう悲惨を日本の人に伝える役目があるとその友人は言っていました。そして、私は「僕はその悲惨の中で生きる人達と一緒に生きるよ」と答えていました。

それほど、アフリカというのは、遠いのです。

講演写真
アフリカは遠いのですと市橋さん

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