2000年11月10日「市橋隆雄さんを囲む会 講演会」(三重県亀山市にて) P7

 今、日本はODAで、ケニヤに対し一番の貢献度です。ダムを作ったり、通信施設を作ったり、他にもいろんな援助が入っています。また、他の国からもたくさん援助が入っています。しかし、実際にはその恩恵にあずかれない人たちが、もうほとんどなのです。
 ですから、いろんな小さなNGOが手がけていますが、そういう草の根レベルでやらなければなら無いことがたくさんあるわけです。私たちは、教会を中心に集まる人たちを動員して、草の根レベルでの活動をしているわけです。

 さきほど言いましたスラムへの婦人グループでの支援には、スーパーの期限切れになった野菜とか油とか洗剤とか、そういったものをスラムへ持っていったり、またクリスマスなど、定期的に教育的なビデオを見せています。

 それから、養子にしました私たちの二人の子供がいた、エイズで捨てられた子供の孤児院があります。そこへ、私たちや高校生たちが行って、労働奉仕をしたり子供を抱っこしてあげたり、そういうことをやっています。
 ナイロビにはいろんな孤児院があります。そういうところへいって、教材を与えたり服を買って持っていったりしています。
 また、障害を持って捨てられた子供たちの孤児院もあります。そこの子供たちに観光客向けのカードを作らせて、手が不自由なこどもには足を使って作らせて、定期的にバザーをやって販売しています。
 ですからやはり教会は、地域の中でのニーズにたいして仕え、活動しているわけです。

 それから幼稚園ですが、教育のモットーは、神を愛し人を愛することで、106名の20ヶ国近い国籍を持った子供がいます。
 先ほどの写真でも、あの子達は比較的きれいな服を着ていたと思います。あの子達は、中流以上の家庭から来ている子供たちです。「なぜその子供たちを相手に幼稚園をやっているのか、貧しい人たちでないのか」と思われるかもしれません。
 ケニヤでは、持っていない人・貧しい人達への働きかけも必要です。それはもちろんです。それをしているNGOもたくさんあります。けれども、それと同時に、持っている人・教育を受けて、お金のある人への働きかけも必要なのです。
 とにかく貧富の差が激しいですから、持っている人が持っていない人に助けを差し伸べていくという、そういう社会の構造を作らない限り、いつまでたっても貧富の差は開いていくのです。
 だから将来、――あの子供たちの親というのは結構社会的に地位のある人達ですが――その子供たちも大きくなると、教育を受けて、社会の中で指導的な地位になっていくわけです。その子供たちに、小さいときからやはり人と共に生きるとはどういうことかを、人を愛する、敬う、分かち合うとはどういうことかを、体験を通じて教えていく必要があります。この子達が大きくなったときに、自然に人を助けるようになって欲しいと願っているわけです。

 また、私たちは近々、スラムに地域のコミュニティセンターを始めたいと計画しています。
 ただ、そのプロジェクトの運営経費をどう出すかということが問題で、今までは外国から宣教師やNGOがお金を持ってきてやっていたわけですけれど、そういう人がいなくなるともう駄目になってしまう。
 しかし、ケニヤの中には金持ちの上流階級がいるわけですね。そして、そういう人たちに質のいい教育を提供して、そこから得る利益を持って、スラムへのプロジェクトに持っていこう。そういう考えをもっています。

 そういう考えで、今やっている幼稚園は中流以上の家庭の子供たちを教えているのです。
 それにやはり、スラムで幼稚園をやるには先生の資質が問題になります。
 ケニヤには幼稚園の先生を養成する機関がひとつしかありません。それは、幼稚園の園長たちが集まって先生を養成する機関をやっているのですが、訓練の内容というのは日本に比べてそうとう落ちるわけです。
 やっと、大学で幼稚園教師としての学位を取れるところができましたけど、それは幼稚園の先生を教育する先生を教育するところで、現場の先生をどうやって養成するかはまだ取り組まれていないんです。
 それで、私たちの幼稚園では、ケニヤの幼稚園の先生を志望する若い人たちを現場で養成することを目的に、若い人をスタッフに入れています。


 それから、日本の若いクリスチャンをアフリカに送り込んで、アフリカの人たちと一緒に働いて、アフリカの発展の為に一緒に生きようじゃないかということで、アフリカ宣教会というのを作りました。
 これまでお話した私のケニヤでの活動といいますのは一つ一つがケニヤの人アフリカの人たちと一緒に生きる――「共に生きる」ということの、具体化であるわけですね。

 二人の子供を養子に迎えたのも、やはり家族として彼等の将来を見守っていこうと思ったからです。
 4月に帰国したときに、三男のノア(チョコボールみたいな男の子が)が僕のことをパパと呼ぶので電車の中で近くにいる人達はびっくりするんですね。スーパーに行くと、おばあさんが「まあ、あんたよく日に焼けて」なんていって(笑)。
 黒い子供が黄色い私をパパと呼ぶという不思議なことがおきている訳ですが、しかし、家族として私たちはアフリカで生まれた子供(親から捨てられはしましたが)と共に生きたいと、具体的に表しているわけです。

 この、「共に生きる」というのは口では簡単ですけど、一番難しいことではないかと思います。同じ日本のような単一言語の国であっても非常に難しいと思います。

 亀山市という街の中でも、なかなか難しいと思います。日本人がケニヤに行くとあまりに問題があるものですから、「彼らとは全然一緒に生きられない」と、もうそれこそ一大事のようにいうわけです。
 しかし、違いがあるということはそれは一番大きな問題ではなくて、違いがあるのはあたりまえで、違いがあるのは物事の始まりなんです。そこから始まるわけです。だから、大事なことは、違いがあるのを認めた上でどう生きるかという努力をすることが大切だと思うのです。

 それには、忍耐と知恵と愛とか寛容とかもいるわけです。

 日本というのは聖徳太子以来、「和を以って尊きとする」といって、「和」というのを大事にしますけど、この「和」というのはひじょうに同質の「和」ですね。同質ですね。
 皆が同じになったらそこに「和」ができる。同じでないと駄目なんですね。違う考えを持っていたり、何か毛色の変わった人が来ると、どうも避ける。同質の中での「和」それが日本の「和」です。
 でも、本当の和というのは、亀山市の標語にもありますように、「個が輝く出会いのまち」あれは、本当は一人一人は違う、そこが出発点で、その違う人たちがそのユニークさを失わずお互い一緒に生き合える、そこにできてくる「和」が本当の「和」だと思うわけです。
 日本人でもそれぞれが違うわけで、お互い持っている違うものを越えて、共に生きる努力をする。

 そして、そこに与えられてくるプレゼントが「平和」だと思います。

講演写真
「共に生きる」とは?と熱弁する市橋さん

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