ねこさんの夫婦でチャレンジ歩き遍路 2019年春 | |
早いものでいつのまにか70歳を越えてしまった。 母も98歳という高齢で亡くなり、かみさんと二人暮らしになってその気になれば閑も自由に作れるようになった。何気なくかみさんがもらした「お遍路にでもいこか」の一言がきっかけで信仰心など微塵も無いオイラも興味をもって遍路リサーチをはじめるとその奥深さにのめりこんでしまった。 今でこそ車やバスでの遍路が大多数らしいが可能なら伝統に沿って歩いてみたい。 幸い自分たちには自由な時間は十分にある。 着々と計画は進み世間は平成から令和に代わる10連休に四国に出かけることになった。 |
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調べるほどに歩き遍路の厳しさが分かってきた。山越え谷越え、連日延々と何10キロも酷道を歩くことになる。 ネット上には、お遍路のブログとして結願つまり成功例があふれている。でもその影に無数の挫折例もあると分かった。そこで自分たちのように失敗とまではいかなくても計画通りにいかなかった遍路例も記録する価値があると思った。 |
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準備 | |
オイラは70歳にしては足腰は強いほうだと思う。でもかみさんは普通のバアバである。遍路途中には700m級の山の上のお寺もある。標準的な金剛杖1本だけでは厳しいから2本杖とし市販品は長すぎて重いので自作することにした。リュックにも付けられるよう伸縮自在になるよう工夫した。 | |
ホームセンターでヒノキの角材を購入し穴あけ加工した。これに登山用ストックの部品を差し込んで自分たちだけのオリジナル金剛杖が出来上がった。刻印は半田コテで南無大師遍照金剛と焼印を入れた。 | |
遍路コースについては徹底的にリサーチした。自分たちの体力、脚力を考慮し標準の約半分の歩行距離で宿に着けるよう計画を立てた。四国すべてなら88箇所延べ1200kmになるが2ヶ月近くかかるので今回は徳島県だけ23番まで約2週間の行程とした。 | |
歩き遍路の大敵は足のマメだそうだ。本番までに足にたこができるほど靴と慣らすために10〜20kmのトレーニングを毎週行った。地元の800m級の山にも登山した。このときは雨天となりポンチョのテストにもなった。 | |
家は遍路中、留守になるので半野良暮らしの飼い猫は外飼いとし餌は給餌器を近所の猫がやってきても大丈夫なように特別に大容量に改造して設置した。遍路先からもスマホで留守宅がモニターできるよう監視装置も設置した。 | |
徳島入り | 2019年4月26日 |
JR線で舞子まで行き高速バスで徳島に入った。 天候もよく鳴門海峡の渦潮もバスから観れた。 徳島のホテルに入ったがまだ遍路は翌日からなのでタクシーで藍の館に出かけた。徳島の藍住地区は古くから藍の名産地である。 |
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藍染めの小物は女たちにはとてつもなく魅力らしいがオイラは価値が分からない。まあこれはかみさんへのサービスかな。 | |
ホテルまで帰路の約10kmは足慣らしも兼ねて歩いた。吉野川はとてつもなく幅の広い大きな川だ。今回は何度もこれを渡ることになる。 | |
この日の歩行データ | |
いよいよ遍路へ | 2019年4月27日 |
ローカル鉄道で坂東駅まで移動し駅で遍路衣装に着替えて1番札所霊山寺(りょうぜんじ)へ。 とまどいながらもお参りを済ませ納経所横の売店で納経帳を買う。お遍路用品はネットで事前に購入しておいたが納経帳だけは現地で買うことにしていた。 |
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通常は2番札所に行くのだがここで気になっていたドイツ村方向に寄り道した。日本での第九発祥の地でもあるそうだ。 | |
お遍路さんでここを訪ねる人はまずいないと思うが賀川豊彦記念館、大正時代のベストセラー「死線を超えて」の著者でありクリスチャンである。 | |
富国強兵の今より遥かに社会的活動が困難な時代、常に貧者の救済と戦争の回避に努力した偉人である。 | |
遍路道に戻り次々と巡る。あえて古来からの遍路道を選ぶので田んぼ道、山道、住居の軒先まで続く。 | |
山中に置かれた碑 戦争中に藍の生産が禁止された時期 憲兵の監視の目をくぐってひそかに苗を残し続け後の世に繋いだ名も無き農婦を称えたものである。 |
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藪に覆われた踏み跡をたどる。 古来の遍路道はこんな感じだったのだろう。 |
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この日は5番まで。民宿寿食堂に到着。入り口でおじいさんが金剛杖を預かり洗ってくれ床の間まで持っていってくれる。「これなら間違えんわな」とオリジナル杖に感心していた。夕食はなんと鴨なべ、豪勢である。 | |
この日はけっこう良く歩いた。 | |
遍路2日目 | 2019年4月28日 |
2日目にもなればお参りの要領が分かって周りを観察する余裕も出てくる。ビジネスホテルを同居させたようなお寺もある。トイレもきれいで靴を脱いで利用した。 | |
住宅地域を延々と歩く、途中には適度な休憩場所もある。通りがかった車からデコポンのお接待も受けた。 他の歩き遍路さんたちを追い越したり抜かれたりを繰り返す。中には野宿だろうか、大きなリュックの若者もいる。野宿はつらいだろうなあ。 |
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宿に荷物を預け333段の階段で知られる10番切幡寺へ 確かにきつい階段だが2本杖の威力で登り切った。 |
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バスの団体も来ていた。いまでは大半がマイカーかバスツアーで歩き遍路は数ではごく少数だ。 | |
この日の宿はビジネスホテル、まだできたてで新品の設備ばかりだった。 | |
夕食は夫婦で遍路お祝いも兼ねレストランでちょっと豪勢に。塊のような刺身が美味しい。でも2000円以下とけっこう安かった。 | |
この日もよく歩いた。 | |
遍路3日目 | 2019年4月29日 |
この日は吉野川を渡って11番藤井寺までとする。普通なら昨日のうちに一気に歩く人も多いようだが老夫婦だから難所の手前は余裕を持って1日を費やすことにする。 広大な田園地帯が広がるとやがて大河吉野川だ。暴れ川としても知られ何度も氾濫を繰り返してきた。昔から橋も氾濫のときはあえて逆らわずに水没させる沈下橋が使われている。沈下橋は欄干は流木で壊されるので最初から設置されておらず歩行者は車が来ると渡るのを待つスリリングな橋だ。 |
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遠くに明日越える予定の山々が連なる。 天気は下り坂が気になる。 |
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明日は8時間以上の難コースなのでこの日のうちに麓の藤井寺に参詣する。この後、宿まで戻り明日に備えた。夜になると雨になった。明日はポンチョ着ての登山かも。 | |
鴨島駅前の宿さくら旅館での食事は宿泊者みんなで食堂で食べる。遍路同士みんな仲間で情報交換の場でもある。 若者から年配者までみんな同じ立場で社会的な地位は関係ない。皆それぞれ想いを持って巡礼の旅にやってきたのだろう。 |
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この日は距離は少なめだった。 | |
遍路4日目 | 2019年4月30日 |
コンビニで昼食を調達し藤井寺まで戻り参道から最大の難所とされる焼山寺に向かう。 霧雨が降っているが遍路傘で小雨を防ぎポンチョは着ないで行けそうだ。 2本杖を駆使しゆっくり登り出す。 親指ほど太い山ミミズに何度か出会う。 見慣れない人はきっと蛇だと驚くだろうなあ。 |
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登っては降り登っては降りだんだん高度をあげていく。 これは登山と言うよりまさに頂上が見えない苦行だ。 |
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苦しい苦しい急登の後、階段が現れた。 霧の中から次第にお大師様が姿を見せた。 良くここまで来たなと励ましておられるようだ。 歩き遍路だけに与えられた感動の瞬間だ。 もうこれだけで十分である。 今回遍路に来た目的は達成された。 |
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更にアップダウンは続く。かみさんの靴がなんかおかしい。なんとソール(靴底)がはがれた。 ここは標高700mの深山の中、戻るわけにはいかないし、まだ焼山寺まではかなりある。 一瞬パニックになった。どうしよう。 しばらく考えたが昔の人はわらぞうりや地下足袋で山を登っていたのだからゆっくり登れば行けそうだ。 幸い内側のソールは無事で足が露出したわけではない。前に行くしかない、最新の注意を払ってゆっくり進むことにした。 |
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8時間以上かけてようやく焼山寺に着いた。 まさに苦行の末にたどり着いた瞬間である。 山頂にはまだボタン桜が咲いていた。 |
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感動と感謝の鐘を突く。 納経を済ませると宿に向かって降る。 ソールの無い靴では滑りやすく細心の注意が必要だ。 雨も強くなりだした。 ポンチョを着る余裕も無いので夕闇迫る山道をびしょ濡れになりながら宿に向かって必死だった。 |
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暗くなってから、宿(なべいわ荘)に着いた。 生き返った思いだ。 これがソールがはがれた靴 もはやこれ以上は歩けない。 明日はタクシーで街まで降り新しい靴を買いに行こう。 注:なべいわ荘は2020年廃業しました。 ところでソールのはがれた靴は9年くらい前に購入しほとんど使ってはいなかった。それにしても直前のトレーニングで100q以上は歩いていてどうもなくこんな深山ではがれるとは・・・・。 |
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この日は今まで最高の距離と歩数、更に高度を稼いだ。 | |
遍路5日目 | 2019年5月1日 |
本来なら延々と17kmの山降りの予定だがタクシーで街まで靴を買いに行く。実に長く歩きにくそうな舗装路だった。 徳島市内の大型ショッピングセンターまで運んでもらうとタクシー代も9000円になった。 モンベルで靴を選ぶ。 |
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壊れた靴は店に処分を依頼し靴を慎重に選ぶ。 専門店だけにスタッフの知識も豊富だ。 |
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雨の中、靴慣らしも兼ねてポンチョを着て13番の札所まで歩く。ゆっくり慣らさないと靴擦れが心配だ。 | |
吉野川の堤防は黄色いワイルドフラワーで覆われていた。 | |
やっと13番大日寺に着いた。 すぐ横の宿かどや旅館ではベテランらしい女将さんがさっそくお風呂を用意してくれた。 |
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こちらの宿で毎度のように出る吸い物に入っている米粒のようなものが気になっていたが女将さんの解説でソバ米とわかった。米が十分できなかった地域でソバを米のようにして雑炊にしたそうだ。 全国でもこの地域だけらしくお土産に購入し発送した。 |
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この日は雨の歩行で距離の割には大変だった。 | |
遍路6日目 | 2019年5月2日 |
やっと雨が上がって朝から青空になった。 この日の予定は4つのお寺を巡るが距離は短い。 一気に徳島市内を抜けて次の札所に行く人もいるようだが老夫婦だから徳島市内の宿までだ。 |
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境内が岩石で覆われた珍しいお寺常楽寺 流水岩と言うそうでタモリがいたら延々とうんちくを語りそうだ。 |
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人生即遍路の石碑、山頭火の句だそうだ。 ここまで来るとほんとにそう思う。 |
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この日の宿はその名も「歩き遍路宿びざん」 名前が気に入って予約した宿だ。 この宿、夕食を外で食べるなりコンビニで済ませるようにして宿泊代を安くし朝食はカレーライスに付け合わせの行動食で500円という驚きの配慮だった。 |
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オーナー夫婦は遍路の生き字引であった。 食堂でこれからの天候予想やルート情報もプロジェクターを駆使して丁寧に教えてくれた。 |
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この日の距離は短めだった。 | |
遍路7日目 | 2019年5月3日 |
7時過ぎから宿を出て市街地を歩く。 連休中で無ければ通勤通学の人であふれるだろう街道も静かでどんどん距離が稼げた。 9時過ぎには徳島市のシンボル眉山(びざん)もはるか遠くになった。 |
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途中、川の河川敷がまるで農場になっているのに驚く | |
こんな休憩所があったので菓子パンで昼食にした。 この辺りから、かみさんが膝の痛みを訴えだした。 だんだん亀さん歩きになってきた。 |
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宿の近くまで来るといよいよ膝の痛みで歩けなくなった。 前を行く90歳くらいの地元のお年寄りより遅いくらいだ。 |
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宿の前ではまるで戦い後のヤマトタケル状態になった。 とにかくこの日の18番恩山寺のお参りは翌日にまわすことにし休息することにした。 |
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この日は最初に距離を稼いだのでこの通り
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遍路8日目 | 2019年5月4日 |
一夜経ってもかみさんの膝の痛みが消えない。 もはやこれまでと、ここで遍路の打ち切りを決めた。 先に予約した宿4軒を全てキャンセルし タクシーで徳島駅まで戻ることにした。 同宿した女性がテーピングをしてくれた。 ロキソニンの湿布もいただいた。 みんな親切だ。 |
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さらば民宿ちば また来るよ。 タクシー、バス、電車と乗り継ぎ午後2時過ぎには自宅に戻った。しょせん日本の中だ、近いなあ |
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留守番をしていた猫がさっそく甘えてきた。 こやつは10歳過ぎたのにタフなやつだ。 |
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フミフミ、ゴロゴロがいつまでも続く | |
この1週間で延べ140km 20万8千歩を歩いた。 |
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計画通りにはいかなかったけどすばらしい体験でした。 何より四国の皆さんや遍路の仲間たちは親切でした。 難所の焼山寺もまさに苦行でしたが何とか登ることができ、それだけでも感動でした。 歩き遍路は厳しいだけに素晴らしい。 お金も時間も、そして何より健康がそろって可能になる究極の贅沢かもしれません。 夫婦共に癌サバイバーである自分たちの幸せに感謝してレポートを終えます。 最後までご覧いただいた皆様ありがとうございました。 2019年5月吉日 南無大師遍照金剛 |
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