ケニヤへの旅 詳細編  「市橋隆雄さんを支える会」伊藤
                                                                         
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2005年9月9日早朝、台風も過ぎ去った伊勢湾をケニヤに向かう9名を乗せた高速艇は津のなぎさ町から中部国際空港に向かっていた。5年間あたためてきた計画がようやく実現したのだ。
今思えば瞬く間に過ぎ去った5年間だった。話は2000年の秋に始まる。

中日新聞9月15日号が「ひと」欄に外務大臣表彰を受けた市橋隆雄さんを報じた。  クリックで拡大
それはナイロビから共同通信が配信したもので「エチオピアでの海外青年協力隊で残ったのは挫折感だけだった。」で始まり「教会からの支援が途絶えた。新たなスポンサー探しに一時帰国する。」で終わる800字足らずの短文だったが読んだ人に感銘を与えるほどに完成されたレポートだった。
この記事を見て当時中日新聞亀山支局にいたH記者が市橋氏が亀山市の出身だと知り市民課職員に話を持ちかけた。当時行政サイドから市民活動を支援する機運が高まっていて、市橋氏の中学時代の同級生の何人かが亀山支局に集まった。正義感あふれ熱血漢でもあるH記者は「こんなすごい人を助けないでいいんですか?」「今、市民活動を始めないで、いったい、いつするんですか?」と熱弁を振るった。
こうして急遽、充分な準備もないままに11月10日亀山に来訪した市橋氏による現地報告講演会が開催された。参照    ほぼ同時に私も市橋さんのホームページを立ち上げた。
H記者による新聞報道や口コミでの連絡が効して130名の参加者が得られ講演は大成功でその晩、「市橋隆雄さんを支える会」が結成された。この講演会がきっかけとなり4月30日には37年ぶりに亀山中学同期生の同窓会が開かれ支援の絆が広がり会員も120名を越えた。
「市橋隆雄さんを支える会」はショッピングセンターでの募金や広報活動を夏冬定期的に続け、ライオンズクラブも年一回亀山大市でバザーを開いて支援をしている。
さて「市橋隆雄さんを支える会」創立の立役者だったH記者は新婚旅行にアフリカを選んだという変わり者でその後、亀山を離れ経済担当記者として大阪−東京と転勤したが当初から「市橋隆雄さんを支える会」の活動の長期的目標はケニヤ訪問だと言い放った。私としては、当時「そんなことできるもんか。」と言うのが正直な思いだった。何より現役の会社員だから時間がない。それにアフリカは遠すぎる。

しかし5年の歳月は自分たちを取り巻く状況を激変させた。会社では世代交代が進み、もはや中高年の居場所はなくなってきた。自分がいなくても会社は動くのだ。それなら体力と、そこそこ収入のある今こそチャンスだと思った。誰も行かなくても自分ひとりだけでも行って先遣隊となってこよう。こうして計画を煮詰めると予想外に20代から70代までの9人もがケニヤに行きたいと名乗り出てきた。
正直当惑した。2−3人なら何とかなるが10人のツアーだと責任も重い。でも準備期間は充分あるから綿密に計画すればできそうだと思った。それに現地に着いてからは市橋さんがサポートしてくれる。これなら空路だけの準備で何とかなる。旅行会社にはナイロビ空港到着までのチケットだけを頼むことにした。それでも前例の少ないチケットの確保は難航しルートも日程も2転3転した。何より9月に行くので台風の襲来を恐れた。中高年だから健康も気遣う。ネットを駆使し情報を仕入れてA型肝炎の予防接種も済ませた。黄熱病の予防接種はケニヤ入国には不必要との確認をケニヤ大使館から得た。マラリヤは怖いが最善の予防は蚊に刺されないことだから蚊取り線香や虫除けスプレーも用意した。その他、準備物はサファリツアー経験者のサイトから徹底的に調べておいた。出発間際に1名だけ実母の危篤によりキャンセルとなったが、これは仕方なかった。こうして9月9日から18日の10日間のケニヤツアーに出発したのである。

私の妻も誘ったがツアーには行かないと言った。アフリカには関心がないようだし車酔いにも弱い。
これが最後の別れになるとは思わないがセントレアまで見送りに来てもらい新しい中部国際空港のウィンドウショッピングを楽しんでもらうことにした。
空港ではまずHISの窓口で予約していたチケットを受け取った。
それから旅行保険に入った。何が起こるかわからないからこれは必須である。一応6000円の払い込みとした。私はデスクトップパソコンの本体を持参するのでキャリィーバッグが重い。振動を嫌って機内持ち込み可能のサイズにしたが重量オーバーを見抜かれた。さすがプロだ。まあそれならそれでもいい。2つのバッグを預け小さなリュックだけの身軽な姿になってドルに両替をする。
既にケニヤでの滞在費やサファリツアー料金は振り込んであるので700ドルもあれば良かった。妻と別れ出国ゲートに向かう。予想通り混んでいる。でも気分はうきうきして心地よい。遊びの旅に出るのは楽しいものだ。平日にこんな海外旅行ができるなんて仕事の責任が重かった頃は想像もできなかった。

まずはバンコクまで渡る。JALと共同運航のタイ航空の便だった。クルーもタイの人がほとんどだった。エコノミーだから狭いのは承知のうえだ。じっと我慢の6時間だった。でも食事は悪くないし仲間は仕事をしているのに贅沢な旅だ。唯一入国カードの記入に老眼鏡が要るようになったのが残念だ。バンコク空港に到着。今日はここまでだから急ぐことはない。入国審査は「おいおいこれだけか?」というほど簡単だった。荷物もフリーパスだった。空港のLEFT BAGGEGEに大きな荷物は預け身軽になって予約済のホテルに向かう。タクシーでボッタくられるといけないので事前に料金を聞く。まあ予想の範囲だった。バンコクのハイウェイは長かった。1時間はかかっただろうか。南国らしい風景も見られたが外は蒸し暑いようだ。市街に入ると猛烈な車のひしめき合いで、とても私には運転できないと思った。

ホリデーイン・シーロムホテルはHIS推奨だけあって立派なところだった。
日本人のスタッフもいて丁重に応対してくれた。部屋もインターネット対応である。スタッフの由美子さんに翌日のバンコク見物を手配してもらった。当初一般ツアーに組み込むつもりが業者と連絡がつかずホテルの従業員の運転によるハイエースで9人水入らずのツアーができることになった。このほうが安いしありがたい。夕食と朝食はバイキング。料理の品数も多いし雰囲気も豪勢だった。アラブのご婦人のツアー客も何人かいた。バンコクはさすが国際都市で豊かだ。これも永く戦乱が無かったからだろう。
運転手兼観光ガイドはアムナットさん。英語が話せるしホテルの従業員だから安心だ。
車はハイウェイをどんどん飛ばす。前方にはどぎついペインティングをほどこしたバスが見える。荷台に若者を満載したトラックも走る。やはり日本とは違う。郊外に出るとどこまでも水田が続く。アムナットが塩田だと言った。海でもないのに塩田とは?それでも路肩には塩らしい袋が山積みされて売られている。トイレ休憩の場には土産物屋が並んでいた。ココナッツヤシの背景がタイらしい。トイレ入り口に掃除のおばさんが座りチップをあてにしていたので少し渡した。店内には価格を表示してないバッグや扇子等のグッズが所狭しと置かれていた。客の交渉しだいで値段が決まるようだ。電卓を持った若い娘さんが寄ってきてしつこく売り込むので、扇子を買ってやった。同行の女性陣たちもさかんに値段交渉していた。

次の到着地は水上マーケット。もうバンコクから80Kmは離れている。
ここでアムナットさんは一時離れ渡船は皆さんで交渉してくれとのことだった。まずはココナッツヤシのジュースのサービスがあった。みんなは全部飲まなかったが私は2人分飲んだ。何でも食える体質は便利だ。渡船業者の商魂のたくましさには、ちょっとひいたが船に乗ることにした。船外機をつけた5人乗り程度のボートである。船底をこすりながら狭い水路を行く。水はにごっていて水底は見えない。岸辺には杭でかさ上げした住居があり子どもたちが水遊びしていた。世界にはこんな生活もあるのだとあらためて思う。とにかく蒸し暑い。日本の夏よりひどい。やがて水上マーケットの乱立する水路に入った。前のボートが進まず待つしかない。両側からはしつこいほど売込みが始まる。象などの動物の置物が大半で日本の100円ショップにもありそうに思え、さほどほしいとは思わなかった。それに割高である。でも必死に売込みする彼ら彼女らのバイタリティには感服した。日本のニートたちにはまねができないだろう。

午後になったのでアムナットにお勧めの昼食場所を任せた。国道沿いに面白そうな野外レストランがあったが残念ながら休業日でローズガーデン内のレストランにした。アムナットに昼食はおごるからタイ料理の食べ方と解説を頼んだ。大河を眺めながらのゆっくりした昼食はなかなか良かった。
バンコク観光で黄金の寺院は定番なので空港への帰途に寄ってもらった。とにかく車がひしめき合ってすごい。こんな道は日本の交通ラッシュの比ではない。遠慮していたらいつまで経っても進めない。車間も数センチまで接近していてヒヤヒヤした。それでも寺院内は厳かな雰囲気で落ち着けた。なんと若い僧侶までデジカメをもって記念写真を撮っていた。私は金箔がどのように貼り付けてあるのか興味があって触ってみたが堅固に樹脂で貼られていた。まあ剥ぎ取るばちあたりはいないだろうけど。
アムナットには空港まで送ってもらいお別れした。ケニヤ航空が1日遅れた為、仕方なく寄ったバンコクだったけどアムナットのおかげで一日楽しく過ごさせてもらった。

空港内は涼しいし日本食のレストランもある。
ケニヤ航空のチケットはなんと手書きだったので不安だったが無事にボーディングパスをもらえてやれやれ。これでアフリカに行けそうだ。ケニヤに向けてのフライトは深夜なのでゆっくり時間を過ごした。ケニヤ航空のシンボルカラーは赤だ。赤い機体に搭乗したらもう雰囲気はアフリカだった。スワヒリ語らしいがまったくわからない。
エコノミーでも各シートにナビゲーションモニターが設置してあり新しい機体だった。冷房がガンガン効かせてある。いかに寒暖に強い私でも少々寒かった。N君はしきりに寒いと言って毛布をかぶった。機内食は味付けがきつく好みではないが何でも食う私は全部食べた。

外は真っ暗で何も見えない。ナビによりインド洋の上を飛んでいることは確かなのだが。起きているのか眠っているのか、もうろうと時間の過ぎるのを待つだけであった。ケニヤ入国のカードが配布されてきて覚醒した。いよいよだと緊張する。ナビではもうアフリカ大陸に入ったようだ。でも眼下は暗闇で何も見えなかった。やがて高度を下げライトが林立するナイロビ空港にあっけなく着陸した。まだ早朝の3時だ。
イミグレは簡単だった。黄熱病の予防接種証明も必要なかった。大きな持込荷物を受け取り税関に進む。さらさんから教えられたようにバッグにチョークでひかれたマークをふき取る。何しろパソコン1台やピアニカ40台、なじみの無い日本食材をどっさり持ち込むのだから不安だった。案の定先行したK君がバッグを開けられさかんに説明している。でも何とか無事通過した。私は「サファリ、サファリ」を連発したら、お前たちはファミリィーかと聞く。"Yah,Yah, We are all family." と答えたら、行けと手招きしたのでみんな並んでフリーパスとなった。ラッキー!!

出口では隆雄さんが笑って待っていた。良かった良かった。
彼は自分の車とサファリ用の車をチャーターして荷物を詰め込み2台に分乗して空港を出た。彼の車のハンドルにはごついロックがかかっている。盗難防止だそうだ。外はまだ暗闇である。ビルの明かりは見えるが信号機らしきものは無い。日本の夜景とかなり違う。やがて坂を上りきると市橋宅に着いた。入り口にはゲートがあり現地人の門番がいた。話には聞いていたが安全はみずから守る国柄だ。

市橋宅の玄関では、さらさんたちが出迎えてくれた。
荷物を運び込み開梱する。まずはピアニカ40台と日本食材を1個所に集めた。パソコンも引渡し、やっと荷物が軽くなった。子どもたちも起きてきて軽い朝食とする。安堵感から食も進むしさらさん特製のパンは美味しかった。すでに必要なケニヤシリング札も用意してくれて至れり尽くせりだった。
外が明るくなったので裏庭に出てみた。けっこう広い庭には緑があふれ愛犬とノア君が走り回っていた。ノア君は学習よりもモノづくりが好きだそうだ。木製の銃で遊んでいた。届いたばかりのピアニカで早くもジャズを演奏はじめた。庭は暑いどころか寒いくらいだった。湿気も無く、とにかく快適だ。
朝から宿泊のホテルへチェックインし荷物を置く。庭の立派なホテルだ。バスの水栓が壊れているがたいしたことではない。ここで4泊はすることになる。

市橋家から歩いて5分ほどのキューナ幼稚園に行く。今日は日曜礼拝の日だ。人々や子どもたちが集まってきた。礼拝堂は幼稚園の教室で想像と異なり狭かった。人であふれると熱気がこもった。さらさんの弾く日本製の古いオルガンで礼拝が始まった。
若い女性がリードし力強い聖歌を歌う。みんなで手振りしながら一緒に歌う。これには圧倒された。歌詞は主をたたえるものだった。
次に特別ゲストとして我々の出番だった。紹介の後、ピアニカの演奏を披露した。全員できらきら星、子どもたちが合わせて歌ってくれた。K君が「ふるさと」、「赤とんぼ」、「われは海の子」、私は旅行前に特訓した「アメイジンググレース」なんとか無事役目を果たせた。隆雄さんは牧師だからこの日のメッセージを語る。今日のテーマは"In His Time"
有名な聖句「すべてのことに時がある」である。
「生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者3章1〜8節)
私たちがケニヤに来られたのも人知を超えた時が導いてくれた。

礼拝後幼稚園の庭に出て簡単なおやつと飲み物が出た。
子どもたちがMさんのデジカメの前に集まって取り囲み彼女は身動きができないほどである。バエ牧師とナイロビと日本について簡単な英語で話し合った。庭は緑にあふれ多種多様の見知らぬ花が咲き誇っていた。これがケニヤのナイロビだった。ひとことで言うならアフリカは暑くは無かった。涼しく快適な気候だった

市橋宅に戻り私は持参したパソコンの設定と故障しているパソコンの修理に専念した。今後のためにも安定した日本との通信環境を整備するのが大切な役目だった。
とにかく日本の10年前以前の電話回線で、その上停電は頻繁である。個人の家庭ではブロードバンドとは程遠い。それでも日本に向けスカイプで呼びかけたら通話ができた。安定性はいまいちだが国際電話と違って無料だし音質もいい。予備機も含め3台のパソコンが修理を終えセットできた。これで日本に写真も送れそうだ。

修理に熱中していたら隆雄さんが日曜にいつもしている日本語による聖書の時間にみんなが集まったので来ないかと言う。ナイロビ在住邦人の数人が集まっていた。テーマは今日の聖句「すべてのことに時がある」の解説だった。集まった皆さんは、ちょうどウガンダから来ていた牧師夫妻や外務省役人の夫人やJICAの医者などちょっと我々とは毛並みの違うメンバーだった。自己紹介でそれぞれのケニヤに来たきっかけを話しあった。「市橋隆雄さんを支える会」の誕生のいきさつは、確かにドラマチックである。
その後、さらさん指南の市橋家手作り料理でパーティを開き楽しい夕刻を過ごした。パーティ中に隆雄さんがジュースをこぼして、さらさんと口げんかを始めるなど、どこにもある家庭の雰囲気そのままだった。
ホテルは夜になると警備員が15人くらい出入り口を固める。まったくすごい。ここまでして保安を確保しないと客の安全を守れないのか。ケニヤでは警察が信用できないのを垣間見る思いだった。

翌日から2泊3日のサファリツアーに出発だ。必要なもの一式をリュックに詰め玄関に向かう。いくつかのグループがサファリカーに乗って出て行く。ホテルの客の大半がサファリ目的なのだ。
サファリとは当地ではゲームドライブと呼ばれ野生の動物を車から見物することでケニヤの大切な観光収入になっている。昔はイギリス人が銃でハンティングしたそうだが今は人間のほうが狭い頑丈な車という檻に詰め込まれて安全を守り猛獣に接近する遊びだ。我々もサファリカー2台に分乗する。運転手はオリバー。30歳くらいで少し日本語ができる聡明そうな男だった。結婚したばかりで子どもは、まだいないそうだ。車(ハイエース)は会社のだそうだ。後部のハッチをがっちりとボルトで締め付ける。悪路を走るためだ。連絡用の長いアンテナをつけルーフは改造され上部に開くようになっていた。
ナイロビ郊外に出ると赤茶けた土とバラックが果てしなく続く。これがアフリカ最大とされるキベラ地区のスラムだった。オリバーは「ここは良くないです」と片言で話した。
世界中からたくさんのNGOが入ってエイズの対策等進めているが、スラムはあまりにも巨大だった。仕事もなさそうな男たちが各所に、たたずんでいた。

ハイウェイを進めるとトウモロコシ畑が続きやがて果てしない絶壁の上部に出た。これが有名な大地溝帯であった。車は長い坂を延々と降った。ユーカリの林が続きいくつかの小さな町を過ぎた。ホテルとペンキで書かれた粗末な小屋が見えた。あれがホテルかと驚く。休憩場所は荒野の一軒家だった。土産物屋の裏手にトイレがあった。屋根の上に水タンクがあり一応水洗らしい。土産物屋は所狭しと動物の置物が並べてあった。値段は付けてなく交渉で決めるようだ。まだ買うつもりは無いので無視する。駐車場では男たちが話しかけてくる。歳は?家族は?奥さんは何人いるの?たわいも無い話で時間をつぶす。買い物はしなかったが話し相手をしてくれたのでボールペンをあげた。さらに何時間か進みガスチャージに大きな町に出た。あたりにはたくさんの男たちが仕事も無くぶらぶらしていた。外に出ないほうが良いとオリバーが言った。窓越しにボールペン持って無いかとジェスチャする男がいた。相手にせず目をそらした。

荒れた舗装路に入るとやがて赤い服をまとったマサイ族が現れた。牛の群れも見える。町からも村からも遠い。野宿するのだろう。牧草を求めてこの地からあの地へ。すべてを自然にゆだねた優美な生活かもしれない。赤い服は遠くからも良く目立つ。永い歴史から生まれた生活の知恵だろう。
舗装路も終わり荒地にはいった。どこまでも広がる大平原だった。オリバーが「キリンさんがいます。」と言った。はるか遠くに長い首が見えた。
前が見えないような猛烈な砂ぼこりの悪路を進む。女性たちはマスクをした。でも4-50年前の日本はこんな道ばかりだった。やっと車1台通れるかと思う狭い橋を渡り坂を登りやっと向こうにゲートが見えた。まさしく荒野の中のロッジである。

チェックインし各部屋に分かれる。出会う人に「ジャンボー」と挨拶を交わす。バスこそ無いがシャワーとトイレがあれば立派なロッジである。ベッドには蚊帳まで付いていて花も飾ってあるしミネラルウォータもセットしてある。至れり尽くせりだ。
食堂のバイキングで遅い昼食とした。果物も肉もパンも何でもある。贅沢なロッジだ。
庭は広くサボテン状の高木や名も知らない花が咲き乱れてまさに楽園だ。石の上にトカゲがいた。これがアフリカのトカゲかとじっくり観察する。でもこんなの部屋には入ってきてほしくない。
動物は夕刻と朝に平原に出てくるというのでサファリはその時間帯にセットされていた。部屋に入りベッドに寝転ぶと快適だった。いつしか夢の国に旅立った。ふと気が付くと夕刻のサファリ出発時間を過ぎていた。あわてて飛び出すとオリバーが迎えに来てくれた。お前寝ていたんだろうと笑ってジェスチャする。イヤーよくあること。

いつの間にか車のルーフは大きく上げられそこから外を眺めるようになっていた。
マサイマラ国立公園のゲートをくぐりどんどん進むとヌーの大群が現れた。
さかんに草を食んでいる。タンザニアからはるばる餌を求めて移動してきたそうだ。
何匹かはライオンの餌食となる。自然の摂理である。
ライオンがいるそうですと言ってオリバーは車をどんどん小高い丘に向ける。既に何台かのサファリカーが止まっていた。雌ライオンが2匹寝そべっていた。近くに雄ライオンも1匹いた。「赤ちゃんを作ります」とオリバーが言う。雄ライオンを10台以上のサファリカーが取り囲んだ。やがて雌がゆっくりと近づき雄は立ち上がると交尾の体勢に入った。数秒後には独特の猫族の鳴き声で終えた。雌が離れると雄は寝そべって休息する。数分後また雌が寄って来て繰り返す。野生そのままのライオンなのに、観光用に何度も見せてくれるのだろうか?サービス精神あふれたライオンこそケニヤの外貨獲得の貢献者かもしれない。

ロッジに戻り遅い夕食とした。食堂の暖炉には薪が燃え壁を照らす。中は世界中からの観光客でいっぱいだった。やはりイギリスを中心としたヨーロッパからが多いようだ。でも日本からの若い女性2人だけのグループもいた。女だけでこんなところに来たの?こわくないの?と我々のグループのオバサンがつぶやいていた。もう世代が違うのだ。
部屋に引き上げるとルームサービスの男性がベッドに湯たんぽを入れてくれた。
夜は冷えるらしい。これならマラリア蚊の心配は無い。
はるばる燃料を運んできた自家発電だから夜10時過ぎには電気が消える。
懐中電灯を枕元に置きベッドに入るしか仕方が無い。どれほどまどろんだのか、気が付くとまだ外は暗いが電気が来ていた。朝のサファリツアーまでロビーで座って過ごす。

まだ薄暗いうちに朝のサファリに出発した。朝もやの向こうに、東の空が明るくなった。地平線のかなたからサンライズである。もう日本はお昼頃だろう。こんな大平原なんて日本では北海道でないと見られないだろう。
はるか彼方に気球が上がっていた。バルーンサファリというそうだ。
おびただしい数のヌーの群れが地の果てまで続く。餌になる草と言っても高さは10〜20センチ程度でそれほど豊かではない。次々と移動していかなければ生存できないだろう。その何匹かが猛獣の餌食となり最後にはハゲタカに食われて骨が残る。しかし糞は草を育み再び草食動物の命を支える。みごとな食物連鎖が成り立っているのだ。

オリバーは無線で頻繁に交信している。もちろんスワヒリ語だからさっぱりわからないが仲間から象の群れを見つけたと連絡があったようだ。サファリカーにとって無線は必須のツールだ。無線機は日本のケンウッド社製で電波はHF帯のSSBを使っていた。とにかく頑丈な機器でないと振動の激しい使用環境に耐えられないだろう。
道形薄い草原を行くとぬかるみにタイヤを取られたサファリカーがいた。
オリバーが降りて車を押す。手伝おうかと思ったがライオンがいたらたいへんだからやめた。数週間前にタンザニアで日本の婦人がサファリ中にライオンに襲われて死亡した事件もあったし。
幸いその車は無事にぬかるみを脱し、象の見えるほうに進む。小川の向こうにアフリカ象の親子が見えた。けっこう早く歩く。たちまち小川を越えこちら側に近づいて前を横切り去っていった。警戒心は無いようだ。あたりにはシマウマも見える。まさに自然そのままの動物園だ。
K君たちが朝飲んだコーヒーが効いて小便をしたいと言う。オリバーが安全なところ?に車を止めてくれた。オリバーも車から降りて用を足す。足元に咲く紫の花を摘んできた。ジャガイモの花に似た可憐な花だ。キリンがゆったりと草を食む。まさに絵になる風景だった。

ロッジに戻り遅い朝食後、近くのマサイ村を観光に行くことにした。別料金だけどそこなら遠慮なく写真が撮れるそうだ。車を降りると村の長老の息子が案内してくれた。
英語も達者で観光ビジネスの才覚にも長けているようだ。まず親父だと紹介した長老は斧を研いでいた。そばで孫が顔中ハエだらけで遊んでいた。なにしろ地面は牛の糞だらけである。足元に注意しながら歩を進めるしかない。部族の女たちや男たちが歌や踊りを披露する。同行の某女性は一緒に踊りだした。マサイの男の脚力はすごい。1m位飛び上がる。彼らの家の壁は牛の糞で固められている。別に臭くは無いが何んとなく抵抗はある。入ってみると暗くペンライトをつけた。寝室?らしき場所と、かまどがあった。例の案内の若者にどんなものを食べているんだと聞くとウガリとかミルクとか答えた。セレモニーの時には牛を食べるそうだ。
病気になったらどうするんだと聞くとマサイの薬があるそうな。
妻は2人いて子どもも何人かいるそうだ。
この若者、商魂たくましくライオンの牙を買わないかと言う。5ドルまで値切ったが結局、最新のLEDペンライトと交換した。この方が値打ちがあるはずだ。セレモニーに使えると珍しがっていた。
外では糞を固めた棚にみやげ物が並べてあり女性陣もなにか買ったようだ。
村の隣にブロックを積みトタンでふいたマサイの学校があった。背の高い子どもたちがグランドでゲームをしていた。
薄暗い教室に入ると算数や英語の教材が掲げてあった。マサイも学問がないと生活できない時代なのだ。確かに観光収入で暮らす生活なら英語も算数も必須であろう。校長室に入るとぜひ寄付をと願われた。少しだけどK君が代表して入れておいた。

ロッジに戻り昼食、午後の時間をプールサイトでゆっくりと過ごす。熱帯の花と緑に囲まれ、せわしい日本を離れて、こんな優美な生活をできるなんて思ってもいなかった。自分たちはアフリカに来ているんだと、あらためて思い直す。

夕刻のサファリの時刻になった。今度はコースを西に変えた。どこと無く植生も違う。大平原にポツ、ポツと樹がまばらに散らばる典型的なサファリの眺めだ。木の上にはハゲタカが留まり、ダチョウもいる。オリバーがライオンがいると言う。路肩のすぐ横に腹を膨らませたライオンが2匹寝ていた。車が近づいても「われ関せず」の雰囲気である。
やはり猫族だなあ。我が家の、寝てばかりいる、のんきな飼い猫たちを思い出した。
オリバーは川に案内した。カバがいるそうだ。頭を少し出してにごった水の中にカバが数頭いた。向こう岸にはサルの群れも現れた。カバの餌は何か聞くと夜に岸に上がって草を食べるそうだ。あの大きな身体を支えるにはたいへんな量の餌がいりそうだ。帰途少し雨が降った。ルーフを一時閉めたが、止んだのでまた開けた。遠くに虹ができた。虹に向かって走る。アフリカ象の群れが見えた。虹の架け橋とアフリカ象、素晴らしいシーンであった。ロッジに戻りサファリ最後の夜を楽しんだ。

ロッジを出てナイロビに戻る日である。すてきで快適なロッジだった。運転手と記念写真を撮った。帰路は往路ほど悪くは無いが荒れた道だった。公園のゲートで窓越しにマサイ族が花や土産を売り込んでくる。もう必要ないので無視をする。
延々6時間の長い帰路であった。両側にはどこまでも荒地が続く。遠くには古代の火山が見える。これだけの土地があっても水も電力も乏しく産業は興せないようだ。何しろケニヤの地下資源は無いに等しくわずかにソーダー石灰がある程度だそうだ。コンゴや南アフリカと大違いだ。でもそれだから欧米列国や部族の争いが少なかったと言える。イギリスから独立後もケニヤッタ大統領というカリスマに恵まれたことも幸いした。貧しくても戦乱の無いこと、このことがケニヤをアフリカを代表する国にしている。
大地溝帯の休憩所に寄った。板張りの見晴台の下は何100mの絶壁である。
日本人だとわかると、片言で、しつこく売り込みにくる。トイレ使用料代わりに5ドルほどの買い物をしておいた。
ナイロビに近づき再び広大なスラムが見えた。田舎で暮らせないから都市に出る、そしてスラムができる。現代の経済構造と人口爆発は人を幸福にするんだろうか。疑問は尽きない。

無事にサファリツアーは終了した。オリバーにはチップとLEDペンライトをお礼に渡した。
ホテルに戻ったら隆雄さんが出迎えてくれた。もう一度チェックインする。
昼食のレストランまでナイロビ市街を隆雄さんの案内で歩いた。夜間の歩行は危険だが昼間、集団で歩くのなら大丈夫だそうだ。それでも列から離れないようにする。ホームレスやストリートチルドレンが汚れた服でたたずんでいる。装飾品や猫の子まで手に持った売り子が声をかける。車は道路にあふれ気を使う。道端の電柱の様に目が留まった。今にも火を噴きそうな高圧配線が乱雑にぶる下がっていた。これでは停電が頻発するのも無理は無い。この国のインフラはまだまだ日本の戦後並だった。

台湾料理の店で昼食としビル内にある土産物屋に行く。信用はできるが立派過ぎて買うものは無かった。市橋家に戻るとハンナさんの友人の東大生や子どもたちもそろってにぎやかだった。日本食を囲んでサファリのみやげ話で盛り上がった。隆雄さんにマサイ村で一人1000シリング(1500円位)払ったと言うと大金だと驚いていた。それでもあのマサイの村は充分楽しまさせてくれた。
ハンナさんは日本で語学関係で働きたいそうだ。なぜかって聞いたら就業ビザがいらないからって答えた。夜遅くホテルに戻り翌日に備えた。

今日はコイノニア幼稚園でピアニカの贈呈式である。これが今回のケニヤ訪問の公式イベントであり私は臨時の中日新聞のナイロビ特派員のような役目だった。
コイノニア幼稚園は市橋家から歩いて15分ほど離れたスラムを谷越しにみる境界付近にある。コイノニアとは分かち合いを意味する。もともと個人の家だからキューナ幼稚園のような立派な施設ではない。
入り口はゲートを番人が固め安全を守っていた。
園児はスラム地区の子どもたち35人で特に貧しい家庭の子を優先し、3分の2は片親か祖母に育てられているそうだ。親の仕事は売店や建築現場の日雇い。垣の石運び、靴磨き、自転車修理、洗濯仕事などだ。
朝、登園した子どもたちはまずトイレの訓練から始まる。順番に並んで用を済まし手を洗う。衣類も清潔なのを義務付けているそうだ。
園児がそろったのでピアニカの演奏を披露する。「きらきら星」を全員で子どもたちも歌う。K君は「ふるさと」「われは海の子」「赤とんぼ」さらさんがキーボードで伴奏した。私は「アメイジンググレース」グローバルなメロディーだから現地の先生も口ずさんでくれた。
その後、ピアニカ40台の贈呈式となった。園児と先生たちを入れ片岡会長からピアニカを受け取る隆雄さん、さらさんの写真を撮った。40台のピアニカを持って全員でも記念撮影、これでセレモニーは終わった。さらさんは子どもたちに「これは衛生上あなたたちの名前を入れるけどあなたのものでなく私が貸しているの。だから大切に使いなさい」と釘を刺した。先生たちもピアニカで新しい音感教育を始めようと、てぐすねひいているそうだ。
ある程度上達したらリコーダーも教えたいそうだ。

キューナ幼稚園に戻り見学する。先に礼拝に出た日曜には教会にもなる幼稚園だ。
ここは大統領の孫まで通っているようにお金持ちの子どもが多い。
一人の子が園舎から飛び出してきて泣いている。さらさんが抱きしめなだめたらおとなしくなった。自閉症だそうでさすが、さらさんだ。先生たちの質も高く誇りがあるようだ。
子どもたちの肌の色はさまざまである。文字通り民族を超えた幼稚園だ。
グランドで一緒に遊ぶ子どもたちを見ていると未来の世界の姿を見ている思いがした。
もし神が人間に視力を与えなかったら肌の色で差別することは無かっただろう。
人類は知恵が付きすぎたのか、それともまだ愚かなのだろうか。

昼食にコイノニア幼稚園に戻った。園児たちと同じ食事の体験だ。食堂はガレージの跡だ。子どもたちが見ているから、ちゃんと食べる前に手を洗った。食事は豆を中心とした煮物でニンジン、トウモロコシ、肉も入っている。お皿に驚くほどたくさん入れてくれた。園児たちの皿も同じくらいである。祈りの後いっせいにいただく。園児たちは、みんなきれいに平らげた。私にもけっこう美味しく感じられた。材料の野菜はスラムのある女性が頭にかけた帯で背袋を背負い市場から運んでくるそうだ。その手間賃で女性は生活しているそうだ。この給食は、多くの子どもにとって1日のすべての食事となるそうで貴重な成長の源である。飽食の日本とはあまりにも違う世界が実体験できた。
ガレージ跡の建物の机を片付け空手の練習が始まった。ケニヤ人の男の人が園児に空手を教えているそうだ。私たちも一緒にまねをしてひと時を過ごした。

子どもたちの帰宅に合わせて谷向こうのスラム地帯を見学することにした。
ケニヤ最大のキベラ地区スラムよりは、はるかに小さい規模だそうだ。
隆雄さんの案内で20mほど降った谷を越え小川を渡り坂を登る。ところどころ人糞が残っており足元に注意する。でも50年前の日本ならこんなこと普通だっただろう。
赤茶けた狭い、でこぼこの道の両側にトタン葺きのバラックが並ぶ。
それも何100mと続いている。途中には売店らしき小屋もあるが電気は来ていない。昔日本にもあった炭を入れて使うアイロンが店先にあった。
水道も無いそうだ。隆雄さんから写真は誰か代表して撮ったほうがいいといわれたがついみんなが撮ってしまった。道には土とごみが混ざって堆積し、はるか昔の日本のどこかを見た思いだ。この光景は忘れることはないだろう。我々が珍しいのか子どもたちが後を付いて来る。コイノニア幼稚園に野菜を運んでいる女性がいたので隆雄さんが家を見せてと頼んだ。狭い入り口を入ると中は窓も無く真っ暗だった。小さな、かまどと鍋一つとベッドにする台があるだけだった。トイレも水道も電灯もない。家具もない。洗濯は谷の小川でするようだ。こんな家でも生活はできるのだ。裕福層と比較さえしなければ、それなりに満足した暮らしができていると思った。

生まれた子どもの3人に一人は5歳までに亡くなる。人生50年以下の世界でもある。
貧しいことは不幸なんだろうか?援助するとは?根源の疑問は尽きない。
さらさんの講演のサンブル族についての想いを思い出した。
「彼らがそれで幸せなら文明社会のものを持っていく必要はまったくないのです。
ですが文明が故に貧しさを増しているとしたらどうでしょう。」
スラムは文明社会が作り出した。先進国の飽食を支えるための農産物の需要拡大。その生産を支える人口の爆発。都市部への人口流入とスラムの形成。問題はあまりにも大きく底深い。
キベラ地区のスラムでは日本を始め世界中のNGOが生活改善、エイズの予防で活動している。予算規模も桁違いである。
では私たちにできることはなんだろう。やはり隆雄さん、さらさんの目指す民族と貧富を超えた教育活動をサポートすることではないか。お金はあっても魂の無いところに救済はない。

コイノニア幼稚園を開園するに当たり入園希望の園児を選び、切り捨てるのは身を切る思いだったという。より貧しい家庭の子どもを優先したそうだがスラムに生きる子どもの一部でしかない。それでも現在運営資金の不足で先生の給料の支払いも困難な状況になっている。卒園後の子どもたちへのフォローもしたい。子どもへの個人スポンサーを募っている事情もここにある。

私はスラム地区訪問を終えると中日新聞にピアニカ贈呈式の記事と写真を送るため市橋家に戻った。日本は夜9時前後、うまくいくといいが。急いで原稿を書き写真を選ぶ。一度目は回線事情が悪く失敗、画像を縮小し再度送って届いたようだ。返事を待つ。まもなくT記者から補足の質問が来た。直ちに返信する。これでいい。何とか役目を果たせた。
懸案だったパソコンの修理をさらに進める。何しろケニヤだ。補修部品もないし回線事情は悪い。予想して持ってきた部品でほぼOKになったが、だんだん欲が出てあれもこれもとやりたくなる。故障しても、めったに来れる場所ではないから。
夕食には一同がそろった。今夜は市橋家がケニヤ食の代表ウガリを用意してくれた。トウモロコシの粉を蒸した練り物に野菜や肉汁をつけて食べるのだが特に美味とはいえなかった。でもこの粗食さえ食べられない人が如何に多いことか。ここでは餓と死はいつもすぐそばにあるのだ。

パソコン修理というより改良が長引きそうなので私だけ市橋家に泊まることにした。
ノア君の部屋を作業場にしていたが眠くなったノア君は兄さんたちの部屋に避難していった。
さらさんの古いデジカメも使えるようになり便利になった。メールも無料電話スカイプも使えるようになり今後の連絡やカナダに留学中のヨシュア君との連絡も市内料金でできるようになった。予備機もできたので一台故障しても大丈夫だろう。ノア君のベッドでまどろみ一夜を過ごした。朝は市橋家の団らんを体験できた。血のつながりは無くても、どこにもある家庭である。ノア君はよく叱られるし言い争いもするし、それでも暖かい家庭だった。

朝ホテルに向かい自分のバッグを回収しチェックアウト。
全員でコイノニア幼稚園に向かう。さらさん達が始めた新しいプロジェクトを見るためだ。さらさんは質素な中にも、いつもセンスのよい身づくろいだ。ケニヤ風のネックレスがよく似合う。
スラムの大人たち20人ほどを幼稚園のガレージ跡に集め新しいビジネスの説明を始めた。特別なルートで輸入した古着を整備し再販する仕事だ。それは堅く圧縮されしわくちゃになっている。洗ってアイロンをかければ付加価値が付く。いくらで売るかはその人の腕次第だ。巧みなスワヒリ語でとつとつと説明するさらさんの姿は魂の語りとも思えた。
ある年配の婦人が今お金が無いから後で払うので古着を持って行きたいと言った。でもさらさんはだめと言う。あなたは私の友人じゃないかと婦人は言う。さらさんは友人はあなただけじゃない、全部なのと言い返す。「私っていやな女でしょ」とつぶやくさらさん。頑固なまでの意志の強さを押し通す。これが市橋さんたちの日常なのだ。餓えている人に一斤のパンはあげられるかもしれない。でもそれはその人を助けることにはならない。自立への厳しさを見た思いだった。

もうナイロビ最後の日である。隆雄さんの案内でハンナさんたちも一緒にジラフセンターに行った。
キリンに餌をやって遊べる施設だがやはりサファリを見た後では迫力が無かった。
こちらに来てから猫の置物を探したが見つから無かったのでヒョウとアフリカ亀の置物を買った。これは市民のショップねこの館へのお土産である。
白人経営の立派なたたずまいのみやげ物店にも寄って時間を過ごしたが高いものばかりで買うものは無かった。隆雄さんはここは人種蔑視の店で嫌いだと言った。昼食を予約した時刻になったので野生動物の肉を扱うレストランに向かった。
ナイロビでは有名な観光スポットである。ワニやダチョウや鶏に豚、牛。あらゆる肉がメニューにあった。焼き上がるたび、ウェイターが、どんどん持ってくる。そんなに食えるものではないがワニは初体験でそこそこ旨かった。テーブルの下には、ねこが行儀よく待っていたので、少しづつ肉を上げた。ねこは何処も同じだ。
隆雄さんの話が国籍と民族論に及んだ。「ケニヤに来て17年になるけど私は日本人だしケニヤ人になれるわけないんです。それより国籍に関係なく違いを超えて共に生きることが自分達に与えられた使命なんです。」
ナイロビの市街地に戻る途中病院が見えた。あそこに入ると殺されると隆雄さんが言った。さらさんが、以前にいい加減な医師の診断で殺されかかったのは、あの病院だったのだろう。街角のバラックのみやげ物店で最後の買い物をした。日本に残った仲間への土産である。思いっきり値段交渉し一同満足そうだった。市橋家に戻り注文しておいたケニヤコーヒーを20Kgもバッグに詰め込んだ。亀山にケニヤコーヒーを紹介するため多量に持ち帰ることにしたのだ。

すべての予定は終わった。あとは無事に帰るだけだ。空港まで夕闇迫る道を急ぐ。車が多く運転はたいへんだろう。隆雄さん、さらさんには本当にお世話になった。
空港に着くとバッグを奪うように運ぶポーターがいた。おまけに途中で落っことした。それでチップを要求した。一応2人いたので2ドル払ったらもう一人がもっとくれという。とんでもないポーターだ。"I paid 2$ already." ときつく言って振り切った。それでも旅行中不快なケニヤ人を見たのはこれだけだった。みんな親切でいい印象だった。

荷物が重量オーバーで追加料金を払ったが何とかケニヤ航空のボーディングパスを受け取った。フライトまでの時間待ちでサファリの絵入りのチョコレートを買ってケニヤシリングを使い切った。これはどこでも定番のお土産である。あとでわかったがオーストラリア製だった。
ケニヤよ赤い大地よ、さらば。今度はいつ来れるだろうか。いやこれが最後かも。深夜のフライトでバンコクに向かった。機内食は見るからに胃にもたれそうで如何に私でも食べ切れなかった。バンコク入国の健康状態申告書が回ってきた。異常なしとはしたが、あとでこれがトラブった。
バンコクに降り立った。荷物をイミグレ前に受け取れないか試みたが無理だった。
イミグレで健康状態申告書を出すとイエローカード(黄熱病予防接種証明書)を要求された。これは誤算だった。予想外だった。ケニヤは必要なかったのに。結局イミグレ手前の医務官室で予防接種を受けないと荷物が受け取れない。フライトまでの時間は12時間とたっぷりあるが今回の旅行中、最大のトラブルとなった。全員恐ろしく非能率な係官の前で手続きし接種を受けた。イエローカードをもらえばOK.でも私は試しにイエローカードを提示しないでイミグレに立った。なんとそのまま通してくれたではないか。これなら健康状態申告カードを出さなかったらフリーパスだったのかもしれない。
まあ結果的には日本なら1万円近くかかる予防接種が1500円程度で受けられ10年有効だからこれでまたアフリカにもブラジルにも行けるので良しとしよう。
荷物は既にコンベアから下ろされていたがK君のだけ見当たらない。調べると名古屋直送だとのこと。みんな同じに預けたのに。でもいい勉強になった。航空会社が違っても預かり荷物は直送できるのだ。それなら乗り継ぎ時間の過ごし場所の問題はあるとしてもイミグレを通る必要もないし今回のイエローカードの問題も無かった。

バンコク空港の待ち時間はそれでも長かった。
夕食は日本食レストランでゆっくりしたがまだ時間が余る。タイの土産を買って空港内をぶらつく。なんとイスラム教徒用のお祈りの部屋まで作ってあった。女性陣はタイ名物のマッサージに出かけた。K君はライオンのように眠る。深夜やっとボーディングパスを受け取り免税店街に出られた。K君は奥さんと娘さんの土産に香水を買った。ウーンさすが・・・・。
バンコク空港の免税店街は巨大だ。なんでもある。やはりここは交通の要所だ。

やっと名古屋に向け飛び立った。JAL提携のタイ航空だが日本語の堪能なクルーが大半だ。もう機内は日本の雰囲気だった。夜明けとともに朝食が出た。おかゆである。これなら胃にもたれない。細やかな心遣いが嬉しい。やはり日本文化だ。
やがてまだ夏の朝のセントレアに降り立った。日本を離れて10日目。何も変っていないようだ。入国審査はきわめて簡単。税関も「荷物は?」と聞かれたので「ケニヤコーヒーです」と一言でフリーパス。あっけなかった。

初めてのケニヤツアーが終わった。大きなトラブルも無く全員無事に帰国できた。もっといたい気分だったがまだ現役の会社員だから無理というものだ。それでも不可能だと思っていたアフリカ旅行が実現し、これからの人生に素晴らしい思い出と体験を与えてくれた。
ナイロビの市橋ファミリィーには物心ともに本当にお世話になり感謝している。
                      (終わり)
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旅行の楽しさは3つあるといいます。
計画する楽しさ、旅行中の楽しさ、振り返る楽しさ
でも帰る場所があるから旅は楽しい。

今この時も戻るところがない難民が世界中にいます。
世の中はなぜ不公平なんだろう。
なぜ民族で信教で肌の色の違いで憎しみ合うのだろう。
ケニヤ旅行を振り返って人間の素晴らしさを
同時に誰もが持つ、どうしようもない罪を想います。
今、自分にできること、それを考え実行する年にしませんか。

                     ケニヤ旅行を振り返って 2006年元旦