ケ ニ ヤ 旅 行 記2005/9/9〜9/18    片岡 記

 
 
出発まで
この度、ケニヤへ行ってきました。 5年前に「市橋隆雄さんを支える会」を立ち上げ、毎年募金活動やバザー協力を行い、ささやかながら、支援活動を続けて参りました。 その間、周りから一度ケニヤへ行ったらと言う声が、再三ありましたが、現在の自分の状況を考えると、とても無理ではないかと思い、あまり真剣に考えませんでした。 しかしいつかは市橋君が心身共に捧げるケニヤへ、行ってみたいと思っていました。 会の世話人の定例会で、去年の夏からケニヤ行きの資金を、毎月1万円ずつ積み立て始めたところでした。 今年になってK君が、『どうしても今年中にケニヤに行くんだ』、と言いだしました。 私は『現役の間は無理だ』と言ったところ、みんなの体が丈夫な時期で、金銭的に多少なりの融通が付けられる今でないと、もうチャンスはないと、決心を固めている様子でした。 そこで私もケニヤ行きを決意し、他の人々にも賛同をよびかけ、行動に移ることにしました。 最終的には10人が、今年、行くことになりました
。 準備や調査は全てK君が、天才的な能力を発揮して参加者に連絡してくれました。 彼の熱意には心から感謝します。 さてケニヤについてですが、市橋さん夫妻は「ぜひ来てみて下さい、いいところですよ」といっていましたが、実感がわいてきません。 ケニヤに対する知識と言ったら、子供の頃に漫画で見た少年ケニヤと、手塚治のジャングル大帝くらいです。 そこはどうしょうもなく暑く、ジャングルが覆いしげり、大蛇やチンパンジーが森にいる、草原にはたくさんの動物が群れをなしている(これはあたっていた)、腰に布を巻いただけの原住民が、槍を持って外部からの人間に容赦なく襲いかかってくる、そんなイメージだけしかありませんでした。近年になってからのニュースでは、異部族間の争いが続き、一般人が近づく事は、非常に危険な所。 インターネットで調べても、詳しいことは何も検索できません。 それほど日本から遠く、またあまり関心をもたれていない所と感じました。 そんな所にどうして市橋夫妻は惹かれていったのか、できたらそれを知りたい。 普通の人ではなかなか機会のないアフリカ行きを、実現できた事は非常に幸運だと思いました。 以下はこの目で見たケニヤの様子です。 想像とはかなり違っていました。 文章などあまり書く機会も無いので、苦労しました。 文章になっていなくて意味不明な点は、直接ご質問下さい。 なるべく細かく書きましたが、見聞きしたことの一部しか記述することが出来ません。 又、今回は飛行便の連絡がうまくいかず、途中のタイで、行きに一日、帰りに半日、滞在することになりました。
是非ケニヤへ行かれる事をお勧めします。 すばらしいところでした。


2005/9/9 (金)出発
5:40 自宅出発、取りあえず妻に運転してもらい、Mさん宅へ向かう。
同行する予定だった方が、母上の急変の為、昨日ケニヤ行きを断念、昨日、お願いしてあったピアニカと現地への土産を、預かりにいったら、顔を見るのがつらいほど残念がっていた。これも仕方のないことか。
5:45 Mさん宅につく。 すでに用意をして庭先で待っておられた。ご主人への挨拶もそこそこに、津なぎさ町へむけ出発。ここは私が運転、妻はどういう訳か、普段よりはしゃいでいる。『俺がいないと、何かいいことあるのか』。 6:30 なぎさ町到着、相次いで全員到着。 6:50 乗船 7:00 定刻通りセントレアへ出航。
伊勢湾は台風の影響もなく、快速で突っ走る 遥か西に四日市、鈴鹿の山々、前方に空港の管制塔らしきものが見えてくる。 7:40 セントレア港到着 重いスーツケースを引きずって、アクセスプラザへ。
HISカウンターで搭乗券の受給、保険会社のカウンターで旅行保険の手続き(6000円)をする。 タイ航空チェックイン、荷物の預け入れ。Kちゃんはパソコン1式を機内手荷物として認められず、(重量オーバー)預け入れ荷物とした。手続き完了後、手荷物検査に向かう途中、M電気の社長に声をかけられる。ベトナムへ遊びに行くと言っていた。手荷物検査を通過し、出国検査へ。 30分程並ばされた。窓口が少ないのか、人が多いのか、もう少しスムーズに出来ないものか。 搭乗待合い所へはいる。すでに日本国内ではない日本円の残り5万円をUSDに交換、免税店でスーパライト1カートンを2000円で購入。
時間待ちの間、雑談、心なしか、心がはずむ、メンバーの声も弾んでいる。 未知の国へ行く不安と、期待で複雑な気持ち、なるようになるさと、気持を切り替える。 10:15搭乗開始、タイ航空、乗務員はすべてタイ人(後で日本人が1人いるのが分かった)内側の座席で窓の外は見られない。 10:30定刻通り離陸、 機が加速し上昇しているのを体感する。 いつも思うことだが、自分の持つ現実から解き放たれると言う、何ともいえぬ開放感を味わう。 しばらく家や仕事の事は忘れられるという、開放感だ。 天候は上々、一路タイ空港へ 機内食は狭いので食べにくい。 缶ビール2本飲んで居眠りする。
4:00頃 タイ空港着、出国審査場はたくさん並んでいる。 しばらく並んでいると、係員が閉まっている窓口を開けて、そこへ誘導してくれた。 なかなか気がきくではないか、タイの第一印象、マル。続いて預け入れ荷物の受け取り、手荷物検査なしでそのまま到着ロビーへ出た。 ここは2階なので3階の出発ロビーへ、エスカレータで移動、ケニヤ航空のカウンターがあるのを確認して、通貨交換所で100USDをタイバーツに交換する。1バーツ2.7円位。 手荷物一時預かり所へスーツケースを預ける。 身軽になったところで外へ出る。又ここがNo1ターミナルである事も確認(2箇所ターミナルがある) なんと暑い、34度位と聞いたが、それ以上に蒸し暑い。日本の真夏よりも暑い。
タクシー運転手とホテルまでの料金を決めて、タイ市内のホテルへ向かう。 車が多い。 ほとんど日本車、 道路の看板もソニー、三菱、トヨタ、・・・これまた日本企業が多い。 高速道路らしき道を1時間以上ぶっ飛ばしてバンコク市内へ。 空港付近は日本と変わらない風景だったが、市内に近づくに従い、高層ビルがふえてきた。 今日の宿泊場所、ホリデーイン・シーロムホテルへつく、車から出るとまた暑い。 なかなかきれいなホテルだ。 カウンターには日本人の女性がいて、チェックインもスムーズに出来た。石川県出身の由美子さん。 なんと我が娘と同じ名前。 付近のスーパーの場所を教えてもらう。 部屋で一服後、スーパーへ買い出しに出る。 雨が降っていたので、ホテルで傘を借りて、夕方の雑踏のなかを少し歩いて、小さなデパートの中を通過し、スーパーに着く、見慣れない果物を売っているが、自信がないので見るだけ、魚類は少ない。 缶ビール、つまみにピーナツ、ハムソーセージの盛り合わせ、モンキーバナナ一房 購入後部屋へ帰ってメンバー全員で試食、うまい。 残った缶ビールは夕食会場(食堂でのバイキング)へ持込OK 。 夕食はタイ食、日本食、? ? いろいろある。 出来るだけ多種を食べたが、どんな味か覚えていない、果物はおいしかった。 夕食後部屋に戻ると、もう眠くなってきた、日本との時間差の影響か。
9/10(土) バンコク市内
夕べ早く寝たので、4:00頃目が覚めた。 朝食の6:30迄、シャワーやTVを見て過ごす。
朝食、バイキング、納豆有り、みそ汁ありでうれしかった。イスラム系の客が多い。 普段は日本人が多いのだろうが、この日は少なかった。7:30 ホテルが世話してくれたワゴン車(ハイエース、運転手はホテルの従業員)で市内観光へ出発、水上マーケットへ向かう。 想像ではバンコク市内の、場末にあると思っていたが、市内から2時間ほども走っただろうか(約80km位らしい、又市内にも水上マーケットはあるらしい) 道は相変わらず車が多い、乗るのが恥ずかしいくらい派手で芸術的にペイントした観光バス、仕事に向かう人々を荷台に満載にしたトラック、単車は意外と少ない。車は市内を抜けて、農村部を疾走、両側に乾いた水田らしきものが多く見られる。聞くと塩田らしい塩も売っている。 泥田でどういう風に塩を取り出すのか疑問、運転手は日本語が通じないので聞けなかった。途中、椰子の実の汁を煮詰めて砂糖を作る、農場兼土産物屋に寄る。 ここで扇子兼帽子を土産に買う。200バーツ、交渉はMさん。 さすが執念。やがて水上マーケットの船着き場につく。 どうもここは観光用らしい。 興味半減。椰子の実ミルクを出され、飲んでみる、青臭いミルク、あまり美味ではないと思ったが、Kちゃんは私の分まで飲んだ。 競走用のカヌーと同じ形の船に4人、5人分乗し、数メートル幅の運河の中を進んでいく。 古エンジンに軸の長いスクリューを付けた船外機を操って、椰子、バナナの木の下を進んでいく。上げ床式の住宅の住民が 運河の水で洗濯、水浴をしている、かなり不衛生、水上マーケットは船上や河岸の小屋で土産物や果物を売っている。 高いと思ったので一切買わなかった。 事実、缶ビールがバンコクのスーパーの倍した。(缶ビールだけ買った) 観光客の船で運河は渋滞、太陽がジリジリ照りつけ、飲んだビールもたちまち蒸発。 マーケットをぬけ魚の餌付け場へ。 鯉に似た(ひれが赤い)魚が撒いた餌に、群がってくるが、たいしたことない。 船着き場へ戻る船はスピードをあげたので爽快。 下船すると早速乗船時に撮った写真を皿に印刷して,売り込みに来る 買う気全くなし。 N君がおもしろ半分に値下げ交渉 あまりの安値に交渉決裂 けちな日本人と思っているだろう.昼前になったので、運転手に食堂を探すよう頼んだが、田舎なのかなかなか見つからず、結局バンコク近くまで戻り、ローズガーデンという名のタイ料理レストランへ。たどり着いたのは13:30頃だった。運転手の説明で、タイ料理を頼んで食べたが酸っぱくて辛い(トム ヤン クンと言っていた)あまり印象なし、ビールがうまかった。次はどこへ行くか相談した結果、エメラルド寺院に決定。 15:30に入場ストップとなるというので、またまた、猛スピードでタイ市内へ。 
相変わらず市内は渋滞、特にエメラルド寺院の周辺は人も車もいっぱい。どういう訳か車で寺院の中まで入れた。入場料を払い寺院をゆっくり見物、金、青、赤・・で外部をちりばめたタイ風寺院が幾棟もそびえている。 これでタイ観光は終わりとし、今夜のケニヤ行きの飛行機に乗る為,タイ空港へ。  5:30頃 空港着11:00まで空港内で時間待ち。 夕食は空港内にある日本食レストラン「日本亭」で。 意外と安くうまい。
9:30 一時預かりからスーツケースを返してもらい搭乗手続。 当たり前だがケニヤ航空の客は黒人がほとんど。 出国手続後免税店街へ。 今は買う気は全くないので、搭乗待合所へ. ありがたいことに喫煙場所が設けてある。  23:00離陸予定と聞いていたが、23:55とモニター表示されている。23:50 搭乗 乗務員は全て黒人。 客もほとんど黒人,しかし我々以外にも、数人日本人がいる。
9/11(日)ケニヤへ
離陸直後、窓からバンコクの明かりが、眼下に散らばっているのが見えたが、じきに暗闇となった。
機内はクーラーが効き過ぎて寒い、あわてて手荷物からジャンパーを取り出し着込む。隣の席の黒人も同様。 N君がしきりに寒いと言っている。 このときすでに彼の調子が、悪くなっていたのだろう. スチューワーデスに文句を言おうと思ったが、みんな黙っているのでやめた。 しばらくして機内食が出てきた。 あまり美味くないが、缶ビールを飲みながらに全部食べた。 となりの黒人はナイフとフォークを上手に使い、美味そうに食べている。 座席に付いたテレビを見たが言葉が不明。 機の航路を表示するナビ画面を見ることにした。
 バンコクからマレイ半島を横断し、インド洋上を一直線にケニヤに向かうらしい。 ナビにも飽き、なにもすることがないので、配布された毛布をかぶって寝ることにした。 足が完全に伸ばせない,尻も痛くなってきた。 通路でいいから足を伸ばして、寝かせてほしい。体をもぞもぞ、うとうとしたがすぐに体がだるくなってくる。 数時間たっただろうか、ふとナビを見ると機はアフリカ大陸に近づいている。 たちまち目が覚めた。 大陸の手前のインド洋上空で、赤道を通過する。 やがて陸地の上空にさしかかったのか、機の揺れが激しくなっきた。 着陸を知らせるらしい機内アナウンスがあり、窓の外を見ると地上のオレンジ色の照明がみえてきた。 いよいよアフリカだ。無事着陸。 入国審査、 少し並んだが無事通過。 荷物検査場の前で他の人を待っていると、係官が笑顔で手招き、仕方なしに検査場へると、パスポートチェックの後、スーツケースを開けよと言う。 胸ポケットから携帯老眼鏡(100均で買ったのが、たいへん役に立った)を出し、苦労して番号あわせし、開けた。すでに後ろに数人並んでいる。 係官が指を指す。 土産のおぼろコンブ『フード』、醤油『フード』、ピヤニカ『??プレイ ミュージック、プレゼント』,工作用のはさみ20個 『プレゼント』,髭きり用の和ばさみ(機内持込荷物の中の洗面用具のバッグに、入れてあったが没収されると思い、名古屋であわててスーツケースへほりこんだ)『???』,手で髭を刈るまねをした。 係官、 OK。 にっこり笑いパスポートを返してくれた。 済んだ。 汗が出てきた。 スーツケースの蓋を閉めていると、次の番のKちゃん、『ウイ アー オール ファミリィ』,すると係官、 OK。 他の人全てフリーパス。なんとええかげんな。 気まぐれで検査しやがる。ロビーへ出ると、市橋君が迎えにきてくれていた。 握手。 先ほどの手荷物検査のやりとりを見ていたと笑っている。 彼が用意してくれた2台の車に分乗し、ナイロビ市内へ。 彼の車のハンドルには盗難防止用のバーが取り付けてあった。 外はまだ真っ暗、少し寒い。道すがら、この国も日本企業の看板が目立つ、TOYOTA、MITHUBISHI・・。 ビルが建ち並ぶ中心部の官庁外を抜け、住宅街の市橋邸へ。家族全員、お手伝いさん、犬3匹までが出迎えてくれた。大きな木々(2,30m)に囲まれた、かなり敷地の広い一軒家だ。 門番までいる。 中へ入ってコーヒーをよばれる。 やっとついた。 「無事着いた」と、日本へ電話するが、日本は今、昼なのにどこの家も電話に出ない。 やっとR君の家につながり、奥さんに他の家にも連絡して頂くように、お願いした。 土産物を全て差し出す。 荷物がいっぺんに軽く
なった。 さらさんがケニヤで使う金として、一人100USD分を、ケニヤシリングに交換しておいてくれた。 約7000シリングある。 朝食をよばれて、明るくなってきたので、家の周りを散策、バナナ、ココナッツ、珍しい木には色とりどりの花が咲いて、いい臭いを放っている。 小鳥の声もたくさん聞こえる。 すばらしいところだ。 気に入った。 しばらくして、滞在予定のホテルへ。車で数分、明るくなった町の様子が、目に飛び込んでくる。 日本より緑が多く木が大きい。 花がいっぱい咲いている。 道は中央部分だけ、程度の悪い舗装がしてある。 両脇はレンガ色の地道。 そこに人々がたくさん歩いている。 ホテルについた、きれいなホテルだ。 木造風の2階建て、中庭もすばらしい。 部屋はR君とツイン、きれいな部屋だ、申し分無し。 10時に市橋君が迎えにくると言うので、それまで、ごろ寝。
時間とおり迎えにきてくれて、車で数分のキューナ幼稚園へ。今日は日曜日で生徒はいない。その代わり教会の礼拝に、スラムの子供たちがたくさん来ている。 こじんまりとした、いい幼稚園だ。 日曜日は教会として使っているらしい。 庭に入って子供たちにカメラを向けると、一斉に寄ってきてカメラをのぞき込んでくる。 礼拝に参加 賛美歌を歌っているが、聞くのが精一杯。 黒人女性の講釈らしきものを、聞くが理解不能。 市橋牧師の説教も理解不能。 我々の紹介のあと持参したピアニカの演奏披露。 きらきら星を演奏する。どうにか成功。 礼拝の後、庭に出る。子供達や先生がお菓子を食べながら遊ぶ。 話したいがなかなか話せない。 Mさんはうまく話をしている様だ。 さすが英語の勉強をしているだけある。 昼になったので歩いて市橋邸へ戻り、日本食の弁当をよばれた。 日本人がやっている食堂からとってくれたらしい。 昼食後、市内のスーパーへ案内してくれる。 ここで今夜のビールを調達、銘柄はWhite Cap、日本よりかなり安い。 14:00 ホテルへ帰還。 15:30迄仮眠。
16:00 市橋邸へ タンザニヤから車で2日かけてやってきたと言う、牧師のO氏一家、JICAでナイロビへきている浜松出身の医者のK氏、外務省役人の婦人の○○さんを紹介される。在ケニヤ日本大使(嬉野出身で市橋君の先輩)も来る予定だったが、都合でこれなくなったとのこと。 一時間ほど聖書についての勉強会。(この世はすべて時によって左右されている)、と言うことを十戒の話を交えて説明してくれた。 話の程度が高いので半分ほど理解。 5:00から 夕食、 焼き肉、 さらさんの味付けという、ラムの肉、 うまい。 ビールが進み次に日本から土産に持ってきた日本酒まで飲みだした。 酒も話もすすみ、楽しいひとときだ。 去年の今頃はこういう事が出来るとは、だれも想像しなかっただろう。 20:00 ホテルへ帰還。 風呂も入らず。 バタン、キュー。
9/12(月)マサイ・マラへ
3:00もう目が覚める。 体の時間感覚が狂っている。 朝食の6:00まで、風呂に入ったりお茶をのんだり、部屋の中をうろうろ。 サファリの用意をする。 長袖シャツ、セーター、蚊取り線香、懐中電灯、薬、血圧の薬、洗面用具袋、トイレットペーパー、梅干し、味噌、デジカメ、靴下、下着・・要りそうなものを、手当たり次第にナップサックに詰め込む。 テレビを着けるとワールドニュースをやっており、日本の衆議院選挙で小泉自民党が大勝したことを報道していた。 又、朝刊にも赤いバラで囲まれた小泉首相の写真入りで報じられていた。 6:00 皆の部屋に電話し、朝食場へ。 バイキング、パン各種、ハム、ベーコン、豆類、卵、目玉焼きはコックが焼いてくれる、果物各種、一応全部皿に取って食べたが特にうまいものなし、朝食場はテラス形式になっていて良い雰囲気だ。大きな石油ストーブが着けてある 日本人は我々だけ、他は西洋人が多い。 少しずつだが全部食べたので満腹。 皿の上を少しでも明けておくと、ボーイが来てすぐに片づける。 6:20 市橋君が部屋へ迎えに来た。 とりあえず、チェックアウト。 スーツケースだけホテルに預ける。 玄関とは別の入口へ集合。 別組のであろうサファリ用ワゴン車が数台待機、出発を繰り返す。 やや遅れて、我々の車も到着。 トヨタハイエース、2台、全て中古車、観光会社の文字が書いてあるが、日本の車庫証明がそのまま残っている。 屋根が大きく開けられるようになっており、座席をたつと首を出せるように改造してある。 後ろのトランクの鍵もハンドル式に改造、おそらく盗難防止と悪路に耐えられる用に改造してあるのだろう。 無線機を搭載、メーカーはケンウッド、 運転手は黒人の30才位、名前はオリバー 日本語は勉強中というが結構話す、それに言葉使いが 我々よりきれいだ。 出発 市橋君と別れる 市内を走る。 車と人がごちゃごちゃになっている。 信号機は見あたらない。 交通規則はあるのだろうか。 我々の感覚ではとても走れる状況ではない。 幹線道路らしき道に出ると車は猛スピードで走り出した。 道の両側にはたくさん人が歩いている。 バラックの様な家がたくさん建ち並ぶそこにも人がいっぱいいる。 大人も子供も何をしているのか分からないが、日本では見られない光景だ。徐々に家の数が少なくなり、畑か多くなってきた。トウモロコシが作ってある。 道は緩やかに登っているようだ。 ユーカリの木が多くなってきた。 相変わらず車は飛ばしている。 畑が少なくなると周りは小高い山に囲われてきた。 所々に大きなサボテンが生えている。 出発から1時間ほど走ったと思われる頃、突然、前方の視界が開ける。 『うわー』 思わず歓声があがる。 大地がここで一気に数百m落ちている。 そこの頂上に出たらしい。 これが有名な大地溝帯か。 眼下から地平線まで大平原がのびている。 雄大の一言。 後はたとえようがない。 道は急に下り坂になる。 途中土産物屋があったが(帰りに寄る)という事で、一気に下る。 大きなトレーラが何台か、あえぎながら登ってくる。 下りきったと思われるところに、小さな町があった。 ここも道端には人がいっぱい、たむろしている。 その町から、大平原に向かって走る。 道は1直線、まだ程度は悪いが舗装がしてある。 両側は麦、トウモロコシが大規模に作られている。 時々現地人の集落らしきものが見える。  トイレ休憩、道の途中の一軒家、 周りは見渡す限りの灌木が点在する荒れ地、粗末な建物の中に、動物の木彫り、その他アフリカらしい土産物がところ狭しと並べてある。 その中を通って裏の離れたところに便所有り、思ったより汚くはないが連れションタイプ、水洗ではない。 終わって店の中を回る。 しきりに黒人の店員が、買えと言って付いてる。 中には日本語の上手な黒人がいた、本とテープで覚えたと言う。電気もないのにテープが使えるのか(後で聞くと古バッテリーを利用しているらしい)何も買う気無し。 駐車場でタバコを吸っていると、黒人達が寄ってきてしきりに話しかけてくる。 英語、こちらも中学英語で話す。 言っていることの半分ほどは理解できる。 一人の男にタバコをやったらうまそうにすった。 頭がふらふらするというジェスチャー。 彼の家はあそこだと数百m離れた部落を指を指す。 そのうち小指をだして、その部落に案内したいような事を言い出した。 『アイ ハブ ノー マネー』 出発、 道は、ほとんど直線だが大きな登り、下りが続く 周りの景色も灌木(オリバーがアカシヤと言っていた)が点在する荒野となってきた。 所々に牛が放牧してある。 車の中が暑くなってきたが、クーラーはついていない。窓を少し開けると気持ちがよい、時々道ばたにぽつりと人が立っている。 何をしているのだろうか。 周りの色は枯れ草色。 突然荒野の中にキリン発見、シマウマやインパラもいる。 車を止めてくれたので、写真を撮る。 地面はカラカラのようだ。 また走る、時々舗装のしてないところも出てきた。 埃がすさまじい。 前の車が見えない位。そのたびに窓を閉める 。すぐに暑くなる。 何回か登り、下りをくり返し 周りの木々が大きくなってきた頃、小さな町に到着。(後で調べたらナロクと言う名の町だった)ここも人がいっぱいたむろしている。看板が道の両脇に並んでいる。 ほとんどバラックのような建物にホテルと書いてある。 どんなホテルなんだろう。 燃料補給、その後オリバーが風邪薬を買うというので、別の店の前で車を止める。 車から出ても良いかと聞くと『ダメ』どうも治安がよろしくないらしい。 しばらく走るとすぐに家並みが途絶えたころ、トイレ休憩。 前回の休憩場所とほとんど同じ、又走る、 もう舗装は全くない。 オリバーはほとんど無言でただひたすら走る。 道もかなり悪くなってきた、途中から脇道らしき道に入る。 朝もらった酔い止めが効いてきたのか、急に睡魔が襲う、しばらく無意識状態のあと、気がついて、窓の外を見ると、車は小高い山の中腹を走っている。 木々も大きなものが増えてきた。 頂上部が大きく枝を伸ばした、サバンナ特有の形だ。 少し前に雨が降ったのだろうか、草が緑がかっている 木の緑、草の緑と周りが淡い緑一色だ。 時々マサイ族の部落らしい集落が見える。 子供が手を振っている。 止まって車から降りたいが、相変わらずオリバーは無言でひたはしる。 時々、牛の集団が見える。 集団には必ず赤い布をまとった黒人が一人ついている。 緑の中でも遠くからよく目立つ。 道を横断中の集団にも遭遇する。 牛が迷惑そうに、我が車を見る中を、むりやり通過する。 途中で小川にかかった、コンクリートの橋にさしかかった。 橋床が車の幅ぎりぎりまで落下している。 慎重にわたった。 渡れなければ今来た道をバックする羽目になっただろう。 又走る。 木々がなくなり、平原になってきた。 見渡す限りの緑の平原だ。 少し離れたところにマサイの部落らしき集落が点在する。 牛があちこちで放牧されている。 やがて今までとは違った、まとまった建物が見えてきた。(観光用マサイ部落とマサイの学校、商店だった)その向こうの山の中腹に、やしの葉で葺いた建物が見え、山の頂上にはアンテナ用の塔らしきものが見える。 時間的に言ってもあれが目的の宿泊地だと思っていると、やはりそれに向けて本道から脇道に入っていった。 道は雨の流れた後が大きく掘れていてますます悪い。 溝を迂回しながら山の中腹までたどり着くと、踏切の遮断器のような門があり門番が明けてくれた。 きれいな花々がたくさん咲いている。 やっとついた。 13:30 本当にやっとついたと言う感じだ。 ナイロビから約7時間、外は肌寒い。 ロッジ風に作られたきれいな建物だ。 黒人のボーイがたくさんいる。 入り口から1段下がったところに、受付があり、そこでチェックイン。 もう一段さがったところが広いロビーとなっており、丸いテーブルと椅子がたくさんある。 昼間なので客は少ない。少し休んですぐに奥の食堂へ向かったが、まだ準備中なのでとりあえず部屋へ行くことにした。 54号室。 R君と一緒だ。 丸い椰子の葉で屋根を葺いたコテージ風の建物だ。 一軒に二部屋とってある。 中のベッドの周りに蚊帳がカーテンのように引ける様になっている。 暖炉付、シャワー有り、バスタブなし、水洗便所、文句なし。 荷物を置いて、食堂へ向かった。 ビールが飲みたい。 テーブルに着くなりすぐビールをオーダー。 食事はバイキング、ナイロビのホテルより種類が多い。 ビラフのような米もある。 腹が減っているので思い切り食べた。 四時にサファリ見物出発というので、それまで昼寝。 3:50 玄関前集合。 空は薄曇り、肌寒い。 デジカメだけを持って車に乗り込む。 登ってきたがたがた道を本道まで戻り、さらに進む。 すぐに管理用の門らしきものがあり、運転手がチケットを手渡し通過、これからが国立公園らしい。 今までいたマサイの牛の放牧もなくなり、大平原になヌーが散らばっている。 見渡す限りの大平原で、遥か彼方の山の裾野まで緑がつながっている。 その中に縦横に出来た地道を車は走る。ロッジを出る時から、車の屋根が開けてある。 ガゼルがいる、シマウマもいる、ヌーは無数だ。 キリンも見える。あちこち走っていると、オリバーが無線でしきりにやりとりしている。 遥か向こうの山の中腹に、我々と同じ車が数台固まっている。 そこへ向けて走り出した。 灌木の間を縫ってすぐに到達。 雌ライオンが数匹いる。 カメラを撮りまくる。 すぐ近くまで車を寄せても、ライオンは知らぬ顔。 反対側に雄ライオンがいる。 車を反対側まで回し写真を撮っていると雌ライオンが近づいてきた。 雄が雌の後ろから馬乗りになり、交尾開始、両者歓喜の声を上げたちまち終了。 雌は十数m離れる。 しばらすると又雌が寄ってきて再開、見ている間に3回の行為。 雄があくびをしだした。 なんとうらやましい。 オリバーがライオンは1週間ぐらい、繁殖行為を続けると言っている。 ライオンにも飽きたので さらに奥に向けて走る。 草原の中にダチョウがいる。 ライオンの餌食になって骨と皮だけになった、ヌーの死骸をハゲタカがつついている。 相変わらずヌーの群れが地平線まで続いている。 その群れの中に一段と大きな牛が数頭見える。 バッファローだとオリバーが説明する。 怖いので近づかないと言う。 どう猛らしい。 夕暮れまで走り、帰途につく。 夕食は7:30からと食堂の入口に書いてある。 部屋へ戻る道を歩いていると、ボーイが『ジャンボ』、こちらも『ジャンボ』、それからあう人あう人に『ジャンボ』、『コンバンワ』という声も帰ってくる。 部屋に帰っても何もすることがないので、早い目にロビーへ出た。 すると他の人もすでにロビーで待っている。 客も皆サファリから帰ってきたのか、ロビーは満員。 全て白人。 時間が来たので食堂へ移動しようと立ち上がると、東洋人の若い娘二人が、スーツケースを持って入ってきた。 日本人らしい。
 少し気になったがそのまま食堂へ。 昼食が遅かったのであまり食欲がなかったが、珍しいものを片っ端からとった。 何回目かの料理収集に立ち上がった時、すぐ近くのテーブルに先ほどの二人が座っている。 『こんばんは、どちらからですか』(横浜です) 『よろしく』何か親近感がわいてくる。 周りが白人ばかりだからだろうか、むこうもほっとしている様子だ。 しかし若い娘がこんなところまで。『ええ度胸しとるナー』。 ビールと、R君が持ってきたパック入りの日本酒でいい気分になってきたので、部屋へ帰る。 蚊帳がつってあるが蚊などいそうもない。 せっかく蚊取り線香をもってきたので点けておいた。シャワーを浴び、10時を過ぎると電気が消えるというので枕元に懐中電灯(100円ショップで買ってきた)を置いてベッドへ潜り込んだ。 枕元にはローソクが一本立ててある。 少し寒い位だがベッドにはいると、すぐに眠気が襲ってきた。 R君は屁を何回も放っていたが、すぐにいびきに変わった。 長い一日が終わった。 
   
9/13(火) マサイマラ
夜中に目が覚めた。 真っ暗だ。 あわてて懐中電灯を点け、ローソクに火をともした。 西川君も目が覚めたようだ。 なんと枕元にローソクとは。 『戒名 書いたろか』 まだ3時だが 目がさえて眠れない、お茶を飲んだり、タバコすったり時間をもてあます。 当然外も真っ暗だから、出て行く訳にもいかない テレビもない、新聞もない、仮にあっても言葉がわからない。 6時のサファリ出発まで寝たり起きたり、出発前になったので、同じロッジのもう一つの部屋に泊まっているN親子を誘いにいった。 すると、N君はマスクをしてベッドで横たわっている。 風邪をひいて関節が痛くどうしょうもないと、弱弱しい声で言う。 薬は飲んだらしい。 今日は部屋で寝ていると言うので、後ろ髪を引かれる思いでロッジを後にする。 彼は昨年胃を切っているので体力が心配だ。 出発前に仕事が非常に忙しかったそうだ、その疲れも出ているようだ。 しかし我々にはどうすることも出来ない。 彼の体力の回復を祈るだけだ。 ロビーまでの道を歩いていると、警備の黒人が立って『グッドモーニング ジャンボ』と声をかけると(オハヨ ゴゼイマス)と返事。 『誰だおかしな日本語を教えたやつは』。 まだ薄暗い、ロビーにはコーヒーが沸かしてある。 『フリー?』とボーイに聞くと『フリー』と言ったので、安心してカップに注ぎ込んだ。 飲み終わるころN君を除いて、全員そろったので駐車場へ向かう。 車は昨日と同じ道を、草原にむけて走る 後ろを見ると朝日が昇ってきた。 アフリカで見る初めての朝日だ。 きれいだ。 少し感動する。 写真を撮る。 昨日と同じ草原を走る。 昨日より動物の数は多くなっているようだ。 しばらく走ると、一台の車が草原の中に止まっている。 近くへ行くと、 雄ライオンがゆうゆうと草原を歩いている。すぐ近くまで接近しても全然無視して歩いている。 後方には今食べ終わったばかりらしい、生々しいヌーの死骸が転がっている。 自然の節理を見せつけられた思いだ。 車は緩やかな起伏のある草原をどんどん走る。 どこまで行ってもこの光景が続く様だ。 遠くにバルーンが見えた。 相変わらずヌーの大群が、地平線の彼方まで散らばっている。 緑がすばらしい。 かなり走ったところでオリバーが『象さんの家族です』と右の彼方を指さした。 目をこらして見たが、見えるのはヌーばかり、やがて車はかすかにわだちの残る草原の中を、象が見えたと言う方向に走り出した。 すると浅い谷の向こうの木立の間に、象が数匹歩いているのが見えた。 かなり早い速度で歩いている。 子象もいる。 『象だ、象だ、象さんだ』 車の中は大騒ぎ。 我先に写真を撮る。 先着の車がぬかるみに落ち込んだのを、オリバーが手伝って脱出させている間に象が、目の前を横切っていく。 大きい、そしてかなり早い。 しばらく象に見とれて、慎重に草原から道に戻る。 その頃になって小便がしたくなってきた 。オリバーに『トイレ OK?』と言うと、しばらく走り、小高くなったところで周りを見渡し、車を止めてくれた。 ここで男全員が立ちション。 マサイマラにマーキングした。  この写真をKちゃんが、知らぬ間に撮っていた。 女性には気の毒に便所がない。 気持ちがいいので全員下車し、空気を胸一杯吸い込んだ。 草むらの間に紫色の花が咲いているのを見つけたので摘んだ。 形はジャガイモの花にそっくりだ。 車内に持ち込んだらKちゃんが写真を撮った。 予想外に象を見られたので満足し帰路につく。 ロッジへ戻り遅めの朝食をとる。 朝食後 マサイ族の部落へ見学に行く。 昨日見た観光用のマサイ部落へはロッジから数分の所だ。 部落の入口らしき所へつくと、オリバーは『自分はここまで 後は自分たちで交渉して下さい』と言って車から離れていった。 そこには、背の高い赤い布をまとったマサイ族の男(まだ若そうだ)が3,4人出迎えており、握手を求めてくる。 各自握手をしMさんが英語で何かしゃべると、部落の中に入るには一人1000シリング払えと言う 前もってオリバーから聞いていたので、すぐに各自支払う。 写真も自由に撮っても良いと言っている。 たちまち撮影しまくる。小枝をぎっしり並べて囲われた直径30mぐらいの円形の敷地の中に、案内される。 その入口は人一人通るのがやっとぐらいの広さで、これも小枝で作った扉がある入り口の前で老人が斧を研いでいる。 彼はこの部落の酋長だと言ってた。 そのそばに小さな子供が座っており、小枝を持って無心にあそんでいる。 2,3才ぐらいだろうか、顔の目や口の周りにはハエがいっぱいたかっているが全く追い払おうとしない。 入り口を一足踏み入れると思わず立ち止まった。 地面は牛の糞でいっぱい、まだ柔らかそうなのも、あちこちにある。 ここは放牧牛の夜間の集積場らしい。 そこを通り抜けると、マサイの家が並んでいる所へ出た。 直径数mの茅葺きの丸い家が数軒、壁は牛の糞で固めてある。 中から煙が上がっている。 その家の前で数人の男が歓迎の踊りを踊ってくれた 何か叫びながら高く飛び上がる。 みんな足が細くて長い、背も高い。Mさんも一緒に踊っている。 マサイがいろいろ英語で話しかけてくる。 ほとんど理解不能。こちらからも中学英語で質問する。 返事はだいたい理解出来た。 一人が自分の家に入れと言う。 おそるおそる中に入る。 真っ暗な狭い部屋の中心に火が燃やしてあり、くすぶっている。 鍋がかけてあるが、何を炊いているのか、暗いので分からない。 火を挟んで両側に寝床があり、一つは自分達夫婦用 もう一つは子供用と言っている。 火を囲んで話を聞いていると、自分の胸にかけているライオンの牙のネックレスを買ってくれと言う。 少し興味がわいたが 火の暑さと煙たさに耐えきれず、すぐに外へ脱出 彼は 奥さんが二人いるという。 子供も数人いるとしゃべっていた。 外へ出るとマサイの女性も集まってきた。 やはり女性は女性らしき感じがする。 きれいに着飾っている。 マサイは結構おしゃれなんだな。 すぐ近くの土産物売り場に案内される。 小枝で編んだ格子の上に牛の糞を塗り、隙間を埋めた台が円形に並べてあり、その上にキリンやシマウマの木彫り、ビーズのネックレス、マサイの着けている赤い布、動物の牙のネックレス・・・がいくつも並べてあるが途中の土産物屋で見たのと変わらない。 しきりに売り込みをしてくるが、あまりほしいものはないので手に取ることもしなかった。 次から次へと売り込みに来るので早々に離れた。 少し離れた所にトタン葺きの平屋が数軒たっており、その近くにたくさんの子供が遊んでいる。 マサイの学校だ。 みんな茶色の制服を着ている。 女の子はスカートをはいている。 背の高い(中学生ぐらいだと思う)女の子がドッチボールをしている。 ただしボールはテニスボールだ。かなり活発に動いている。 向こうの方では男子がサッカーをしている。整地はしていないが、かなり広い敷地だ。 柵もなく所々に草が生えている。 今は休憩時間だと言っていた。 教室に案内してくれた。 ちょうど休憩時間が終わったのか、子供達が教室に戻ってきた。 黒板には算数の図形問題が書いてある、結構高度な内容だ。 教室の後ろへ回ると世界地図が貼ってあったので『ウイ アー ジャパン』と言って日本を指さすと子供達は『ジャパン、ジャパン』と言って日本を指差し次に『ケニヤ』と言ってケニヤを指さした。 みんな大喜びで、いろいろ話しかけてくるが 中学英語では理解出来ない。 英語をもっと習っておけば良かったなー。 次に職員室らしき部屋へ案内してくれた。 6畳ほどの部屋で校長先生らしき人が説明してくれた。 その向こうで女の人がテストの採点をしている。 見るとほとんど答えに斜線をいれている。 誤解答ばかりかと思っていると、正解答に斜線を入れるらし。い 優秀じゃないか。 校長先生が教材を買うお金を、寄付してほしいと言っていると、Mさんが通訳してくれた 財布を見ると500シリング札があったので、みんなの分と言って渡した。 
確かに教材らしきものはほとんど見あたらなかった。 こんな環境でも勉強は出来るものだと感心した。 日本の子供達に見せてやりたいと、つくづく思った。 これでマサイ部落見学は終わり、車に戻りロッジへ帰る。 どうも牛の糞のにおいが鼻についてしまっている。 
ロッジへ着き車を降りるとすぐに水たまりを探し、靴の裏を洗った。 ズボンの裾にもついているような気がする。 ロッジへ着くともう昼食だ。 あまり腹は減っていない。 ビールを飲んで適当につまんで食べた。 食事後、庭のプールへ出た。 白人が泳いでいる。 周りは花がいっぱい咲いている。 椅子に座って昼寝をしようと思ったが、暑くなってきたので部屋へ帰ることにした プールサイドにを見ると、トカゲが一匹はっている。 日本のトカゲよりかなり大きい。 愛嬌のある顔をしている。 Kちゃんが写真を撮った。 部屋へ帰る道も花でいっぱい、パパイヤもなっている。 ナイロビではまだ咲いてなかった、ジャガランダという花が大きな木に紫の花を付け、満開になっている。 有名な花らしいだけあってきれいだ。 部屋で昼寝、部屋の中へはいると肌寒い。 隣のN君の様子を見に行くとまだ寝ている。 声をかけたが返事があるだけ、大丈夫だろうか。 3時に又サファリ見物に出発するというので、まで昼寝。
3時に又カメラだけを持って出発。 今度は侵入道の途中から山道に入った。 道はここも、でこぼこ、雨水で出来た溝を避けながら進む。 満員の人を乗せたバスとすれ違う。 唯一の交通手段なのか、周りは小高い木々が生えており、その間からマサイの放牧牛が見える。
 しばらく進むと今度はシマウマがたくさん見える、道からは10mぐらいしか離れていない。 木々の下は草しか生えていないので、それを食べているのだろう。 30分ぐらいで山道を抜けると小さな集落に出た。 マサイらしき人がたくさんいる、市場も見える。家はトタン葺きで煙突も立っている、ガラス窓も付いている。 中にひときわ整った建物がある、 役所の建物か。 集落を抜けると草原にでた。 昨日までとは違った景色の草原だ。 地平線まで草原が続いている。 ぽつりぽつり末広がりの木が見えるだけで、あとは草原ばかり。 Kちゃんがロッジで購入した地図を見ると、これでもここは平原の入り口で 草原はタンザニヤとの国境を越えた向こうにマサイマラの何倍も広がっている。 そこを動物たちは餌を求めて行き来しているらしい。 何という広さだ。 360度周りを見ても人造物はなにひとつない。 日本では絶対見られない光景だ、これが大自然か。 感動の連続。 車は平原の中をどこまでも突っ走る。 相変わらずヌーやシマウマやキリンが悠々と草を食べている。 急に車が止まった。 オリバーが『ライオンです』と言う。見ると道ばたに雌のライオンが昼寝をしている。 1m程しか離れていないのに、こちらには全然無関心で、腹を大きく上下させ気持ちよさそうに寝ている。 しばらく走ると少し低くなったところに川が流れている。 その川幅が広くなったところで車を降りた。 川の中を見ると大きなカバが、数匹水面に見え隠れしている。 写真を撮っていると川の向こう岸の崖の上に猿がいる。 はじめは2匹だったがだんだん数が増えてくる。 小猿も遊んでいる。 カバを見て、もと来た道を戻りだした。 キジのような鳥が10匹ほどいる。 ほろほろ鳥だと言っていた。ぽつんと立っている木の上には、数匹のハゲタカがとまっている。 途中で空が暗くなり雨が降り出した。 にわか雨の様だ。 前方に虹が架かっている。 集落を過ぎ山道にさしかかると雨が少し激しくなった。 前を満員のバスがのろのろ走っている。 向こう側の山を背景に虹が鮮やかに見える。 よく見ると2重に架かっている 我々の会のロゴマークと同じだ。 天も我々を歓迎してくれている様な気がする。 デジカメの画面を見ると「メモリー不足です」と表示されていて撮影不能。  しばらく走ると車が急停止した。 オリバーが『象さんが横断します』と言って前方を指さした。 見ると数頭の象の家族が道を横断している。 しばらく待って又、走る。 当たりは薄暗くなってきた。 ロッジ近くまで来ると、草原で見た猿とは違う種類の猿の集団と遭遇する。 『あの猿は凶暴です』とオリバーが言っていた。ロッジに帰りN君の部屋を訪ねると、『関節の痛みはなくなり、少し良くなってきたので夕食には出たい』と言っていた。 しかし結局、
この日の夕食にも姿を見せなかった。 夕食のメニューはあまり代わり映えがしないので、ビールを飲んで適当にとって食べた。 日本から持って行ったうめぼしをたべた。 味噌も持って行ったのでピラフの様な米に着けて食べた。 懐かしい味を思い出した。 考えてみるとケニヤの食事はどうも味が薄い様だ。(自分が塩分をとりすぎているのだろう)みんなでいろいろ話をしサファリ最後の夜を楽しんだ。食事の終わりにN君に果物や持ってきた梅干しを、包んで娘さんに渡した。食事が終わるともう何もすることがない、シャワーを浴びて寝るだけ。昨夜と同じように懐中電灯を枕元に置き、ベッドに潜り込んだ。R君は相変わらず屁を放ってる。 それも間隔がだんだん短く、数分おきに気持ちよさそうに放出する。 海抜が高いので腹の内圧のバランスが崩れたのだろうか、起きている間中、景気の良い音を発したが、やがていびきに変わった。 
 9/14(水) マサイマラからナイロビへ       
今日も3時に目が覚める。 6:30の朝食まで寝たり起きた、 朝食の前にN君を訪ねると、持ってきたおかゆと梅干しを食べたという。 
今日はどうしてもナイロビに帰りたいので、がんばってほしい。 暗い道を食堂へ向かって歩いていると、ボーイが『オハヨ ゴゼイマス』 他の部屋の白人が『グッド モーニング コリアー?』 (ノー ウィ アー ジャパニーズ グッド モーニング) 白人とも抵抗なく挨拶出来るようになってきた。 朝食は夕食に比べると、メニューは少ない。コックが目玉焼きを焼いてくれるので、もらった。 卵の黄身は日本程黄色くないが、味は変わらない。 パン食はあまり好まないので、又ピラフの様な米を主体に食べた。  7:30 出発。 N君は歩くのが精一杯。 がんばれ、運転手に事情を話し、ゆっくり走るよう頼んだ。 出発前にみんなで記念撮影。 車は昨日通った山道を走る。 昨日の象はもう見あたらない。 マサイの集落へ出る。 今日も人がたくさん出ている。 集落を抜け、昨日行った草原とは反対方向に走る。 管理用のゲートがあり、チェックアウトをしている。 車を止めるとマサイの女の人が、手に土産物を持って売り込みに来る。 窓を開けずに無視する。 ゲートを抜け、車はがたがた道を走る。 後ろのN君の乗った車が気になり時々振り返る。遅れ気味だがどうにか付いてきているようだ。 帰りは途中まで来た時と違うコースを走ると、オリバーが言っている。 周りの草だけの草原はなくなり、灌木や木立の混ざる平原の中の一本道を走る。 昨日の雨のおかげか、埃は立たない。 時々、マサイの部落らしき集落が見える。 放牧牛とそれを追う赤い布をまとった黒人も見える。 後ろの車に合わして、あまり速度を出さないので、他の車が猛スピードで追い越していく。 平原の中に道が一本遥か前方まで続いている。 そこをただひたすらに走る。 途中から来る時に通った道に出る。 景色に見覚えがある。 トイレ休憩、来る時に寄った所だ。 それを過ぎナロクの町へ到着。 ここで又、燃料補給、終わると又走る。 ここまで来ると雨は降っていないのか、前が見えない位、埃が舞い上がっている。 道の両側に家の数も増えてきた。 来る時と同じ、大きく登り下りを繰り返し、舗装道路になった道を突っ走る。 走る、走る、又走る。行く時に見覚えがある大きなパラボラアンテナが見えてきた。 もうすぐ断層地帯の下の町に到着、その町を過ぎると、道は急な登り坂となった。 来る時と同じように大きなトレーラーが、真っ黒な煙を吐いて、のろのろ登っている。 カーブが多いので追い越しに苦労している様だ。 時々道ばたでトーモロコシを焼いて売っている。 たき火をたいて棒に刺したトーモロコシを焼いた簡単なものだ。 峠の上にさしかかり、行く時『帰りに寄る』と言っていた土産物屋に立ち寄る。 とりあえず便所へ。 便所は簡単な扉の向こうに地面に穴が開いており、その両側に板が置いてあるだけの簡単なもの。 男女共用、男はその穴にめがけて放出すれば良いが、女性はちょっと難しいのではないか。 ちょっと心配だったが女性軍は何食わぬ顔をしてすませてきたので安心する。 便所の中にはお金を入れる箱が置いてあったが、腹が立ったのでポケットにあったタイの小銭をほりこんだ。 用を済ませあらためて大地溝帯を見下ろす。 今日は行く時ほど見晴らしが良くない。 ここでも土産物の売り込みが激しい。『ミルダケ、ミルダケ』と言って店の中に誘い込む。 ほんとに見るだけで出てきた。 出発前に市橋君が『サファリの土産物は高いから買わない方いいよ』と言っていたのが思い出された。 少し休んで出発。 ナイロビまで一時間位だった。 2時ころホテルへ到着。 N君も無事に着いた。 すでに市橋君が待っていてくれた。 チェックインをする、部屋へ案内してくれる。 部屋に先に入ったR君が『俺 こんな部屋、いやや』と言って飛び出てくる。 中を見るとなんとダブルベッド、俺にもそんな趣味はない。あわてて部屋の変更をしてもらう。 まだ昼食をとっていないので食事に向かう。 N君だけホテルに残し、近くの台湾料理店へ市橋君が案内してくれた。 夕食まであまり時間がないので、腹は減っていたがビールと餃子と焼きそばを、とってみんなで分けて食べた。 食事が済み、土産物屋に案内してくれた。 そこはこぎれいなビルの一階にあり商品には全て値札が付いている。 値段も高い 大量には買えないので、ここも見るだけにした。 土産物屋を散策した後ホテルへ帰る。 16:30迄ホテルで仮眠。 今夜も市橋邸でごちそうしてくれるという。 17:00 市橋邸へ着く。 途中、前に行ったスーパーでビール調達。 今夜は日本食だ。 久しぶりの日本食に箸が進む。 色々なことに話が弾む。 家には娘のハンナちゃんが東京で知り合ったと言う 一人の娘さんが来ていた 東大生だという。 息子のヨシュア君、ノア君(黒人の養子 男)、リベカちゃん(黒人の養子 女 )、 リベカちゃんはインド系の顔立ちで、5年前に見た時より、すっかり大人びてきた 二人とも日本語を話す。 ハンナちゃんは市橋君のお母さんに似てきた。 東京から来ているという年配のお手伝いさんも交え、ワイワイ、ガヤガヤ 楽しいひとときを過ごす。 夜も更けみんな疲れが出てきたのか、眠そうな顔になってきたので ホテルへ帰還 部屋へ着くとジャワーも浴びずベッドに入る。
9/15(木)幼稚園、スラムへ
今日も3:00に目が覚める。 まだ体がナイロビ時間になっていない。 ジャワーを浴びてお茶を焼かして飲んでも、時間がありすぎる Kちゃんがサファリの帰りの車の中で、幼稚園でするピアニカの演奏はきらきら星だけでは寂しいので、何かやってくれと言っていたのを思い出し、音に気を遣いながら 我は海の子、赤とんぼ、ふるさとを吹いてみた。 子供の時にならった曲だったが、吹いているにだんだん思い出してきて、どうにか吹けるようになった。 6:30 朝食、 今日もN君は寝込んだままだ 食堂にはストーブが焚かれている。 メニューは前と同じ、米食はない。仕方なしに食パンを焼いて、バターを付けて食べる。おかずはベーコンと、コックが焼いてくれた目玉焼き、その他はあまり口に合わない。 8:00市橋夫妻が車で迎えに来てくれ、コイノニヤ幼稚園へ向かう。車で数分、町のはずれにある。住宅を利用した建物だ。浅い谷を挟んだ向こう側はスラムの家々が屋根を連ねている。 以前さらさんが、日本へ持って来てくれたビデオで、見覚えのある光景だ。 門番がいる門を入ると駐車場になっている。 グランドはない。 裏へ回るとちょうど園児が出てきて便所に並んでいる。 一人ずつ用が済むと裏口から家の中へ入っていく。 入り口に水を張った洗面器が2個置いてあり、石けん、各自の名前の書いたタオルがぶら下げてある。 きちんと手を洗い、自分のタオルで手を拭いて中へ入っていく、日本の幼稚園と同じように教育されている。 家の中へ入る。もとは住宅だったらしく、教室はあまり広くない。 部屋の真ん中に蛍光灯が一本着いているが暗い、自分の職業柄、気になった。 各年齢事に部屋が分かれており黒人の保母さんが付いている。 園児は37人と聞いた。 やっていることは日本と同じようなことだと思ったが、おもちゃ以外の教材はほとんど見あたらない。 一番大きな部屋に入ると、年長の子供だけが同じ部屋に集められた。 狭いので、園児全員はとても入らないからだろう。 そこで、市橋夫妻が園児に我々が日本からやってきたこと、市橋君の故郷の幼なじみと言うこと、子供達にピアニカを持ってきたことを説明した。 次に我々の自己紹介の後、全員で きらきら星を演奏した。続いて私がふるさと、赤とんぼ、我は海の子を吹いた。 今朝、少し練習したおかげでどうにか演奏出来た。 他の人は曲に合わせて歌ってくれた。 最後にKちゃんが、アメイジング グレースを演奏した。 終わると子供達が大拍手をしてくれた。 そして我々の持っているピアニカを、興味深そうに眺めている。 続いて引き渡し式と言うことで、子供の代表にピアニカを手渡す、子供の後ろに市橋夫妻が立つ、記念の写真を皆が撮影する。 (夕方にこの写真の一枚をKちゃんのパソコンで日本の中日新聞のT氏に送ることとなる)  儀式を終えしばらく授業風景を見学、休み時間になったので子供がおもちゃで遊んでいるのを、見ていると次々とおもちゃを持って、遊び方を説明しに、周りに集まってくる。 みんな我々に興味があるらしい。 今度はキューナ幼稚園へ向かう。車で数分、キューナ幼稚園は元々他の人が幼稚園を経営していた建物で広く、グランドもある。 教会にも利用している。 ここは裕福な家の子供達が来ている。 門を入っていくと、いきなり大きな子供の泣き声が聞こえ、中から白人の子供が泣きながら飛び出してきた。 後を黒人の保母さんが追ってくる。我々と一緒に入ったさらさんを見て、子供が彼女にしがみついた。 さらさんが一言二言何か言うと、たちまち子供は大人しくなり、保母さんに連れられ中へ入っていった。 「さすがだなー」と皆で感心する。 ここはコイノニヤに比べると広く、きれいで 設備も整っている。 園児は白人、黒人、インド人、東洋人、日本人 と人種の博物館と思うほど多種だ。 現ケニヤ大統領の孫もきている。 ここでも、ピアニカの紹介があり同じ曲を演奏したが、今度は間違ってうまく演奏出来なかった。 ここでも授業風景を見学する。 休憩時間になったので園児と校庭に出る。 みんな元気に走り回っている。 人種の違いなんか、全然関係ないようだ。 一人おもしろい子供がいた 市橋君に聞くと、コンゴ人の子で、一時日本で生活したことがあるらしい。 『コンチクショウ、シゴトシロヨ オマエ カイシャインダロ』他の子供に話しかけるが全く無視されている。昼前になったので、またコイノニヤ幼稚園へ移動。 食堂は、もとは車庫だったろう部屋で 保母さんと園児が7,8人ずつ座れるテーブルに、皿に盛られた食べ物が、一人一皿ずつある 量は子供には多すぎると思ったが後で聞くと、子供はあればあるだけ、食べるし、朝食を食べられないで登校する子かいる為、これくらいの量にしているらしい。 我々もいくつかのテーブルに別れて座り、園児達と一緒に昼食を頂くことになった。 ジャガイモ、大粒のトーモロコシ、大きな豆、刻んだニンジンがまとめて煮込んである。イリオという料理らしい味は塩味だが薄い あまりおいしいとは思わなかったが、園児達も保母さんもうまそうに食べている。 園児達が皆私を見ているので、思い切ってみんな食べた。 奥歯が欠けているので堅いトーモロコシに苦労した。 食べ終わるとこちらから園児達に、一人一人名前を聞いた。 最初は小声で話していたがなれてくると、声も大きくなり笑顔で話しかけてくる。 子供はどこの国も一緒だ。 昼食が済みしばらくすると下校時間になり集団で帰りだした。 門の外までは親が二人迎えに来ている。 幼稚園の前の道を少し行き、それから泥道の細い坂を下り、小川(この川でスラムの人は洗濯している)を渡り反対側にあるスラムへ続く道を、園児達が走って帰っていく。 途中でしゃがんでおしっこしている女の子もいる。 我々も市橋君に案内してもらい、園児達が帰った道をスラムに向かった。 道の両側にトタン葺きの低い屋根が連なる、電気は来ていない。 狭い路地もありゴミが散らばっている。道は泥道で大人や子供がたくさんいる。 大人に『ジャンボ』というと笑顔で『ジャンボ』と帰ってくる。 子供が数人後を着いて来る。カメラを向けると前に群がってく。 みんなかわいらしい顔をしている。 輪投げのような遊びをしている子もいる。 小さな店屋も出ている。 どの人も笑顔で答えてくる。 雰囲気は良い。 生活臭がにおってくるがあまり気にならない。 遠い昔に見たことのあるような風景だ。  しばらく歩き、もと来た道を戻った。途中ある家の中をのぞかせてもらったが、中は真っ暗で何も見えない。 こんなところであの子供達は生活しているのか。 一軒だけほとんど柱だけの、コンクリートの建物があり、市橋君がスラムの幼稚園だと行っていたが、とてもそれには見えない。 谷を降りる途中少しの畑があり、その横に10x20m位の広場があった。 市橋君はそこでいつも子供達とサッカーをして遊ぶという。 泥道の坂を、滑らないように気をつけながら幼稚園にもどる。 スラムの人々が予想外に明るいのには驚いた。 幼稚園に帰ると、昼食後に空手を子供達に教えにきていた黒人が帰っていった。我々もホテルに帰ることにする。 帰る途中、前から気になっていたホテルの近くの、土産物屋街へ行きたいと言うと、市橋君が案内してくれるという。 Kちゃんは昼間の写真を日本に送るのと、さらさんのパソコンの修理をする為、さらさんと市橋邸へ向かう。 土産物屋街はホテルから歩いて数分の所にある、バラック建ての集合した一角だ。 入るのに少し度胸が要りそうなところだが、市橋君が付いているので安心してどんどん中へ入っていく。 客はほとんどいない。 2〜3m事に仕切られた店にいろんなアフリカ土産が並んでいる。 
『ジャンボ』『ハワユウ』『コンニチワ』と声が行き交う。 各店には黒人の女の店番がおり、盛んに物を進めてくる。 一巡した後、R君が槍を買うと言ってある店で交渉しだした。 木の握り部分が、スーツケースにはいる長さの物を選んだ(あらかじめスーツケースの寸法を手で測っておいた)金属部分は外せる。 4本6000シリングと紙に書いている。 R君が何回かの交渉の末2000シリングまで値下げ成功。 ここで話を打ち切って他の店に向かう。 そこでは6本1800シリングまで値下げ成功。 交渉成立で2000シリング支払うと、店の女はつりを出そうとしない。 もう一人の店の男は槍をばらして、すでに紙に包んでいる 私はいったん女の手に渡った、2000シリングを奪い返し『オール キャンセル』と言って、その場を立ち去った。 店の物はしばらく引留にかかったが、こちらはそれを無視して 次の店で同じ物の交渉をし 結局1800シリングで買うことに成功した。 しばらく歩いていると、別の店でW君夫妻が交渉している。 1個300シリングと言っていたキーホルダーが55シリングで交渉成立、私も20個買うことにした。 そばで見ていたMさんが『マイ ワイフ プレゼント』と言ったら2個おまけしてくれた。 出口の方の店まで行くと、タオルくらいの大きさの布に書かれた、絵を売っていた。 その中の派手な色彩の黒人絵を、1500シリングから交渉の結果、400シリングで買った。 もっとひやかしたかったが、ホテルへ帰ることにした。 部屋へ帰り、買った土産物を置いてN君の部屋を訪ねると、まだ寝込んでいる。 夕食には出ると行っていたが、無理に誘わなかった。 しばらくして市橋邸へ向かう。 途中コンビニへよりビールを調達、コンビニの女主人は孫がキューナ幼稚園の園児らしく、市橋君と親しく話している。 言語はスワヒリ語らしい。 彼は時々現地の人と話すが全てスワヒリ語だ。 中学時代から語学(その時は英語)が優秀だったが、彼の語学力はすばらしい。 今夜も夕食は市橋邸でお世話になる。 あらためて感謝する。 今夜はケニヤの料理だ。 食べたことのないようなもなばかりだ。ウガリというトウモロコシの粉を練って蒸した物や、ウガリというスクマウィキと言う名の野菜も出た。(ホテルの料理には野菜は無かった)又腹一杯食べた。 団欒を終えパソコンの修理が終わらないので、今夜は泊まると言うKちゃんを残して、ホテルへ帰る。 ビールの酔いが回ったのか、部屋へ入るなりベッドへ潜り込んだ。 R君は相変わらず屁を放っている。 間隔が数分おきになった。 しかし体調は良いという。おかしな腹だ。 屁の音を聞きながら寝込んでしまった。

9/16(金) ナイロビ市内 帰路へ
又、3時に目が覚める。 朝食までの間帰り支度をする。 使った下着や靴下は袋に入れ、スーツケースに入れる ナップサックにはジャンパー、靴下、洗面用具(和ばさみをスーツケースの中へ入れ替えるのを忘れた)デジカメ、を入れる。 時間が来たので朝食場へ向かう。 N君を誘いに行くと出発の用意はしているが朝食は食べないという。 メニューは今日も同じ、さすが飽きてきた。 昨日と同じパンと目玉焼きですました。 朝食が終わるとまだ時間があるので、プールサイドの椅子に座りタバコを吸う。 どこからか三毛猫が近づいてきて、手を出すとじゃれてきた。 部屋へ戻り帰り支度を調え部屋を出る。 R君は着古しや必要の無くなった物は、全部屑籠へ捨てた。 N君を誘いに行くと部屋から出てきたがすごくやつれた感じがする。 スーツケースをもってやろうと言うと、手押し車の代わりに使うというので荷物の少なくなったR君が、リュックを待ってやることにした。 ロビーへ行ってチェックアウトする。 サファリの時に集まった出口へ集合。 市橋君が彼のワゴン車でもう一台はサファリにチャーターした、もう一台のハイエース 運転手はサムと言っていたが日本語は話せない。 市橋邸へ荷物を預けに寄る。   次にコイノニヤ幼稚園へ向かう そこではさらさんが スラムの子供達の母親に、収入を得させる為 古着を200シリングで購入させて それを自分たちで売り、その差益を得させると言う試みを母親達に熱心に説明していた。 親たちも熱心に話を聞いている スワヒリ語なので話の内容は理解できないが、 熱弁ぶりからさらさんの熱の入れようが伝わってくる。  よくぞここまで出来るものだなーと、あらためて感動する。 そして我々が支援する市橋夫妻の活動が困難ではあるがすばらしいことだと、あらためて思う。 それから郊外へ走る。 相変わらず道の両側には人が歩いている。 一時間ほどでジラフセンターという観光用のキリンの飼育施設へ着く。 中へはいると粒状のえさが置いてあり、階段を上がったステージの上からえさを出すと、キリンが長い首を手元まで下げ、蛇の様な舌で上手に食べた。すぐ近くにはイボイノシシが数頭寝ころんでいる。 別の所では大きな亀を飼っている。しばらく休んで車で数分の所にある土産物屋に移動、ここは庭が手入れしてあり珍しい植物が植えてある。 高級なイメージがある。 中へはいると商品には値札が付いており、案の定みんな高い。 昨日の土産物屋が頭中にあるので、どうしても買う気がしない。 しかし日本を出る前に、”はなむけ”をくれた会の女性陣やライオンズクラブに、何か土産を買って行かなければならない。 ここは高すぎる。 数が多いので金が足らない。 市橋君にもう一度昨日の場末の土産物街へ寄ってほしいと頼む。 ここでは誰も買わないのですぐに店から出てきた。 昼まで時間があるのでここの庭の椅子で雑談、頃合いを見て昼食場へ向かう。 いろんな動物の肉を食わせてくれるというレストランだ。 そこへ着くと昼時なので客がたくさん入っている。 中へはいると部屋の中央に火がたかれ、大きな肉のかたまりを、棒に刺して焼いている。 白人の客がテーブルで肉にかぶりついている。 奥はきれいな庭が造ってあり、そのそばのテラスのテーブルへ案内してくれた。 早速ビールをオーダーする。 ボーイがテーブルの真ん中の飾りに、小さな旗を立てる。 肉は食べ放題で、この旗を倒すまで肉を持ってくると説明してくれた。 ラム、ダチョウ、鶏、ワニ、牛、豚・・と次々に焼きたての肉のかたまりをボーイが持って来、ナイフでそいで皿に配っていく。 要らない肉は『ノー サンキュー』。 それを各種の香辛料の入った、たれにつけて食べる。
 ビールが進むが、すぐに腹がいっぱいになった。 すぐ隣のテーブルで、一人我々より前から食べていた白人は、まだ食べている。 最後はアイスクリームで終わり。 日本人の客もあちこちいる。 店を出る時、サファリのロッジで会った、横浜の娘二人に又出会った。 
   みんな似た所を歩いているんだ 肉で満腹になり、ナイロビ市内へ移動。 帰り支度があるのであまり時間がない。 土産物屋街の近くで車を降り、昨日買った路地の、入口近くの店へ入る。 店主はまだ我々を覚えており、笑顔で迎える。 早速交渉に入る。 昨日1枚400シリングで買った布絵を15枚を一枚300シリングでと交渉した。 店主はなかなかOKしない。 要らないと言って立ち去ろうとすると、引き留める。 2,3回同じ事を繰り返し、最後に店主は手で自分の首を切るジェスチャーをしながら笑顔でOKした。 これで日本への土産は購入完了。 気が楽になったところで、待ってもらっている車へ帰った。 ところが運転手のサムがいない。 周りを見渡しても見あたらないので市橋君は『ヴェリーアップセット』と言っておいてくれ、と言って、彼の車だけ先に帰る。 しばらく待つと、のんきそうにサムが帰ってきた。 自分の買い物をしていたらしい。 市橋君の言葉を告げると急に表情が硬くなった。 市橋邸へ帰り、さらさんが頼んでおいてくれた、土産のコーヒーを受け取りスーツケースへ詰め込む。 来た時と同じ位の重さになった。 私はブルーマウンテン10個とケニヤコーヒー10個頼んであった。、さらさん他お世話になった家族の人々に、何回もお礼を言って 市橋邸を出る。 帰りも市橋君が空港まで送ってくれた。 市内は相変わらず車と人の渦、夕方近いので特に多いようだ。 市内を抜けて空港への道に入ると、やっとスムーズに走るようになった。来た時と同じ、道の両側には日本企業の看板が目立つ。 夕暮れ近くなりナイロビ空港へ着く。 車を降りるとすかさず二人の黒人が、カートを持って荷物を積みにかかった。 空港ロビーまで、2〜30mなので、自分で持つつもりだったが先にカートへ乗せてしまった。 仕方なしにKちゃんがチップを100シリング払ってくれた。 市橋君は『払わなくてもいいよ』と言っていた。 ロビーに入りすぐに搭乗手続き、まず荷物検査、ここで機内荷物のナップサックの中の、洗面用具袋に入れた和はさみが、X線に反応し、処分せよと言われたが、小林先生のスーツケースへ入れてもらい通過、次に荷物の預け入れ、順番を並んでいる間に出国手続書を書く。 全て英語なので人の書いたのを見せてもらい書き込む。 預け入れ荷物検査でスーツケースの重さを量る。 27kg有り、追加料金を払えと言う。 来る時と同じ重さなのに、文句が言いたいが、英語を話せないので、係官の支持に従うことにする。すぐ近くのカウンターへ行き書類を見せると、32USD払うように言われ支払う。 支払った金は検査機の様な物に通し、確認している。 Kちゃんは70USD払ったと言っていた。送ってくれた市橋君に最後の手を振って分かれる。 次の出国審査は問題なく通過、続いて手荷物検査、これも問題なく通過したが、椅子に座ってみんながそろうのを待っていると、後ろのR君がリュックの中身を全部出さされている。 扇子は仰いで見せてOK、日本から持ってきた電気蚊取器の説明をしているが、係官は理解出来ない。MさんとKちゃんがが英語で説明してOK、 結局中身全部を出すことになったが、女の係官が手伝ってリュックに仕舞い込むのを手伝っている。 全員揃い離陸の11:15迄時間があるので自由時間とし、免税店を散策する。 N君は搭乗待合場の椅子で横になっている。 私はライオンの絵とKENIYAと書かれたチョコレートを五つ購入する。(家へ帰って見たらMADE IN AUSTORARIA と書いてありがっかり) 次に本屋でケニヤの地図を購入、20USDなので10ドル札を2枚出したが店員が受け取らない。何か英語で言っているが理解不能。 別の10ドル札を出すとやっと受け取った。よく見ると最初に出した札は使い古されて、しわくちゃだった。 受け取ってからも札を見て調べている 偽札が多いのかどこの店でも受け取る札は店員がチェックするのが普通らしい。 免税店にも飽きたので、待合い場で椅子に座って時間待ちをする。 N君は床に寝ころんでいる。 相当つらいのか 声をかけるのも気が引ける。 何とかがんばってほしい。私は待合所と喫煙所の間を行ったり来たり 11:00 搭乗開始。 11:15 離陸 予定通り。 ケニヤよさらば。      
 9/17(土) ナイロビ〜バンコク 
機は予定通り離陸した。 眼下の明かりはすぐに見えなくなった。。 来た時も夜だったので、結局、空からのアフリカ大陸は見ることが出来なかった。 座席のナビを見ると、バンコクまでの空路が映し出されている 帰りはインド洋を横断し、インドの上空を通過し、マレイ半島に到達するコースで、往路とは少し違っている 安全ベルト解除OKのサインが出ると、すぐに機内食が運ばれてきた。 開けてみたがあまり食べる気がしない。 缶ビールを2本もらってあったので、それを飲みながら少しだけ頂く 帰りの機内は適当な温度で、往路の様な寒さはない。 ゆっくり寝ようとしたが、やはり狭い。 又、体をごそごそしながら、夜を過ごす、マレイ半島上空付近で、空が明るくなってきたが眼下は雲ばかりで何も見えない。 時計は7時前を指している。ここでタイ時間にあわす為、時計を4時間進める。 やがて揺れが激しくなり眼下にタイの地表が見えてきた。 水田が多い。 大きく旋回したかと思うと、水田の中のタイ空港に着陸。 この機
は香港行きなので、バンコクで降りる人のみ、降りるみたいだ 我々は乗り継ぎするので一旦空港外へ出なくてはならない。 ところが簡単に出られると思ったのに、そうはいかなくなった。 KちゃんとMさんが係官に説明したが、入国手続きをしなければ出られないという。 又入国には黄熱病の予防接種の証明が必要だと言う。(黄熱病の予防接種必要無しの証明はケニヤ大使館からもらっていて全員予防接種をしていない)入国審査場の横にある○○○号室で予防接種をしてくれる事が分かるのに手間取った。(空港職員が不親切なのに腹が立
った) やっと○○○号室へ行くと、黒人や白人が数人予防接種の申請をしている。 相手の係官は年配の男二人だけ、一人は英語が通じないらしい。 我々も仕方がないので申請をして、予防接種を受けることにする 二人の係官のうち英語の出来ない係官は料金(500バーツ)を受け取り、金をポケットに入れ、しばらくするとどこかへ行ってしまい、一人の係官で書類の作成、注射の用意、注射とすべてやっている。 書類はいくつかのゴム印を押すので、手間がかかる。 いらいらしたが仕方なく順番を待つ。 Mさんが気を利かしてみんな
に飴を配る。 それをなめるとちょっと落ち着く。 さすが障害児担当を長年勤められただけある。 係官にも飴をやると、にこっと笑って口に入れた。 一人で一生懸命やってくれているが段取りが悪い。 やっとの事で全員注射を終えて出国手続きに並ぶ。 荷物受け取り場へ行くと私のスーツケースが見あたらない。 しょうがないので、預かり証を持って手荷物案内状行き、Kちゃんに説明してもらうと係員は、私の預かり証を見て名古屋へ直送になっているという。 そういえばナイロビで荷物を預ける時、係官か『バンコク、ナゴヤ?』と聞いたので(ナゴヤ)と答えた事を思い出した。 荷物が無事日本へ着いていることを願って、納得する。 空港ロビーへ出て他の人は、前回預けた一時預かり所へ荷物を預ける。 もう三時を過ぎている。 結局空港を出るのに、3時間以上要したことになる。 空腹でのども渇いているので、行く時に寄った日本亭へはいる。 とりあえずビール、つまみを頼み、しばらして日本酒を飲みたくなってオーダー。 店員の女性は和服を着て、日本語を話すので注文しやすい 酒を飲まない人は各々日本食を頼み、行く時に待ち合わせた所に集合することを確認して、店を出る。 Mさん達女性陣は空港内のエステに行くと言っていた。 N君はシートで横になっている。 久しぶりの酒がうまい。 途中タバコが吸いたくなり、空港ロビーの外の車の停車場まで出た、暑い、もう夕暮れ近くなっているのに、タバコを吸っているだけで汗がにじんで来た。 ここに比べるとナイロビはなんと涼しかった事か。 最後にうどんを食べ眠くなって来たので、待ち合わせ場所の椅子に座り眠りに入る。 機内ではほとんど寝てないのと、疲れと、とりあえずバンコクまで無事帰れたという安堵感で、座ったまま熟睡してしまった。 この写真をKちゃんが撮っている。 8:30に搭乗手続きが始まるので、その前に一時預かりから荷物を戻し、空港税500バーツを全員の分用意し、残りのタイバーツを売店で処分。(ガム2個) 定刻通り帰りのJL738便のチェックインが表示されたので、荷物の預け入れをする。 私はは直送になったので、その必要はないので、N君の荷物を手伝う。 JALの窓口は当然日本語を話すので、今までになく安心出来る。 出国手続きも全員問題なく通過出来た。 そこを過ぎると免税店街へ。肝心な妻への土産を忘れていたので、Mさんに頼んでシャネルの香水を選んでもらい、購入。 タバコが無くなったのでマイルドセブンスーパーライト(日本のと少し味が違う)を2カートン20SUDで購入、あとは免税店街をぶらぶら、かなり広い。 タイマッサージの店まである。 1往復すると見飽きたので、手荷物検査場を抜け搭乗待合所へ行くと、すでにみんな椅子にすわって待っていた。 ここでも 待合所と喫煙所の間を行ったり来たりして、出発時間を待った。 さすが日本人が多い それも名古屋近辺の人だと話の内容から伺える。                   
9/18(日)帰国                                   
 予定より少し遅れて搭乗開始。 機内へはいるとほぼ満席、私は最後列のシートだった。 ただし今までの航空会社に比べ 少しゆったりしているし、きれいな感じがする。 パーサーのアナウンスも日本語で感じがよい。(JALは最近トラブルが多いので気を遣っているのか)離陸後しばらくして、ビールとつまみをいただき、眠りに入るが熟睡は出来ない。 入国手続き書と健康チェック表が配られてきたので、それに記入する。 日本語なので問題なく書ける。 2,3時間、うとうとしていると九州上空にさしかかったと、機内アナウンスがあり、時計を2時間進めて6時前とした。 機内食が出された。 メニューは肉のまぶしたおかゆ、そば 、魚・・・食べるとどうも塩辛い、自分の舌がケニヤの薄味になじんでしまったのか、座席のテレビを点けると、NHKのニュースをやっていたが、どうもビデオらしい まもなく着陸というアナウンスがあり窓の外を見ると、海が見え船が白い筋をひいているのが見える。 伊勢湾の上空なのか。 7:30頃中部国際空港に着陸。 入国手続きは日本人と言うことで、至って簡単。 健康状態だけ聞かれたが当然『異常ありません』と答える。 荷物受取場へ行くと心配していた自分の荷物が、一番最初に出てきた。 ほっとする。 荷物をカートに載せ、続いて荷物検査場へ。 ここもノーチェック、なんと簡単なことか、それに比べてナイロビ空港はなんと厳しかったことか。 セントレアのロビーへ出る。 9:00発のなぎさ町行きまで時間があるのでアクセスプラザで一服、喫煙所へタバコを吸いに行く。『ついに禁煙出来ませんでした ごめんなさい』 船着き場まで動く歩道に乗り、移動 乗船待ちをしていると急に暑くなってきた。 思えばタイ観光以外ケニヤは涼しかったし、機内やタイ空港内は空調が効いており、長袖でよかった。 日本はまだ夏であることに気が付いた。 高速船は行く時と同じ、ベタ凪の伊勢湾を突っ走り30分程で津の日本鋼管のクレーンやアストのビルが見えてきた 帰った。 N君も無事帰ることが出来た 。津港へ着くと妻が迎えに来ているのが見えた。 『ああ 又現実の始まりだ』 わざと気づかぬ振りして違う方向へ歩いていくと、妻が後から追ってきた。 妻の運転で家へ着くと 猫が迎えに出てきた。 俺の顔は忘れていないらしいそれから一週間、時差ぼけで苦労しました。
   

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