ケニヤの旅 「市橋隆雄さんを支える会」
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片岡さん作の旅行記はここです。
 伊藤作の詳細編”赤い大地”はここです。

「市橋隆雄さんを支える会」では今回始めて有志でケニヤを訪ねました。
旅行期間  2005年9月9日〜18日
メンバー構成  現職会社員(含:公務員)、退職会社員、退職教師、大学生等 総員9名
なぜケニヤに行ったのか?
☆ 聴くだけでなく身体で体験したい
☆ 観光収入がケニヤの支援になる
☆ 市橋さん達がいるので現地でのサポートが得られる
☆ なにより自分達が楽しみたいから
市橋隆雄さん さらさん についてはここをクリックください。
ツアーの概要
準備は3月から始めた。現地の手配は市橋さんたちにお願いし航空チケットはHISを使った。航路は当初、関空からエミレーツ航空を使いアラビア半島のドバイ経由、ナイロビのつもりだった。ところが10人近くのチケット確保ができなく、やむを得ずバンコクで乗り換えケニヤ航空でナイロビのルートとした。このためバンコクで行きは1日、帰りは12時間の乗継ぎ時間ができた。そこでバンコク観光も兼ねることにした。予算は航空券等18万円、現地での2泊3日のサファリ代と宿泊が9万円程度だった。ケニヤ入国はビザが要るのであらかじめ東京のケニヤ大使館で取っておいた。予防接種はA型肝炎を有志だけ受けておいた。黄熱病についてはケニヤ大使館よりケニヤ入国には不要との確認メールをいただきコピーを持った。
1日目はタイのバンコクまで     写真をクリックすると拡大します   背景の花はジャガランダ
台風一過、津のなぎさまちを出、静かな伊勢湾を高速艇でセントレアにむかう。
はるか鈴鹿の山なみが「行ってらっしゃい」と送ってくれた。
JALでまずタイのバンコクに渡る。
破損防止のため機内持込を考えていた小型デスクトップパソコンは重量オーバー(15Kg)で預かり荷物となった。
結果としては全く問題なくケニヤで機能した。
タイ航空とJALの共同運航便なので乗務員はタイの人が主だった。民族衣装をアレンジしたユニフォームが印象的だった。
6時間でタイのバンコクに到着。ホリデーイン・シーロムホテルは日本人スタッフもいて日本と、さほど変わらない。この日はホテルでゆっくりして翌日をバンコク観光にした。
特にツアーを組んでいなかったのでホテルの手配で我々だけの専用ツアーができることになった。運転手はホテルの職員である。
HISが紹介してくれたバンコクのホテルは近代設備がそろっていた。ノートパソコンを持ち込めばインターネットもできる。
ホリデーイン・シーロムホテルの夕食・朝食はバイキング
アラブ系、西欧系、アジア系、実に様々の国の宿泊者がいた。
これが今回のツアー全員です。年齢層は22歳から67歳までの親子孫世代です。
2日目はタイ観光
バンコクの道路は車がひしめき合い恐さは日本の比ではなかった。運転手は巧みに郊外へと車を進める。
けばけばしいバスのペインティングがタイらしい。
まずはバンコクから80kmはなれた水上マーケット。
日本の100円ショップでもあるような品が多くあまり買う気がしなかった。ケチなグループだと思われたかも。でも小船の旅を満喫できた。
わずかの現金収入を求めて必死に呼び込む現地の人たちのたくましい生き方。
日本のニート達はどう見るかな。
定番の王宮の黄金の塔
一度は来てみるバンコクのシンボルだ。
ケニヤ航空のチケットはなんと手書き
バンコク空港でチェックインするまで不安だったが問題なし
深夜にケニヤのナイロビに向かうケニヤ航空の機内。
スタッフも乗客も当然ながらアフリカ系が大半となった。
スワヒリ語が飛び交う世界だ。キリマンジャロに登山するらしい日本人グループもいた。
深夜のフライト12時間。
ナビゲータはいよいよケニヤに到達を示す。
朝の4時にナイロビ空港に着陸。
空港では入国審査はビザも取ってあったのでスンナリ行ったが税関では緊張。
なにしろパソコンやピアニカを40台も持ち込むのだ。
場合により法外な税金を取られる。
「サファリ・サファリ」を繰り返し1人だけ開梱されただけで無事通過。めでたし、めでたし。
3日目にケニヤに到着
日曜の早朝に市橋隆雄さん宅に着き、くつろぐ一行
無事着いて良かった良かった。もうこれで心配はない。
市橋さん宅の裏庭は広い。
見慣れない樹木と花、緑がいっぱい。
暑いどころか気温は12℃程度で寒いくらい。赤道直下でも、ここは標高1700mの高所なのだ。日本でいえば伊吹山より高い。
お金持ちの子どもが通うキューナ幼稚園の園庭。
子ども達が寄ってきた。
今日は教会の日曜礼拝である。
市橋隆雄さんは牧師である。
本日の説教のテーマは「全てのことに時がある」

生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。延々と続く(伝道者3章1〜8節)

私達がケニヤに来れたのも時だったのだろう。

さらさんはオルガンをひく。
幼稚園の子ども達も同席する。
礼拝のなかで日本から持参したピアニカを演奏。
曲は全員で「キラキラ星」
あとは有志が「我は海の子」「赤とんぼ」「ふるさと」
「アメージンググレース」と何とか役目を達成。
慣れないことでちょっと緊張はした。
礼拝の後は園庭でクッキー等、簡単な食事と交流会。
現地の牧師とも語り合えた。
園庭では子ども達がデジカメを取り囲み、おおはしゃぎ。
メンバーの1人は身動きできなかったほどだった。
市橋さん宅の前庭で全員記念写真
入口には、いつも警備の門番がいる。お国柄だ。
私はパソコンを整備しネット電話スカイプで日本との通信を試す。壊れたパソコンも修理してきた。
夕刻から市橋宅でパーティ
ナイロビ在住の日本人も集まってきた。
外務省駐在員の妻、教会関係者、等々
ここでは来客も多いそうだ。
ナイロビでの宿泊ホテルにチェックイン
十数人の警備員ががっちり周囲を固めている。
警察が信用できないここでは、安全はみずから守る。
おかげでホテルは安心して泊まれた。
4日目からサファリへ
翌日からサファリツアーへ出発
2泊3日のコースだ。
広いケニヤでは移動に時間がかかりこんな日程でないと厳しい。
右のワゴンがサファリカー。トヨタ製だ。悪路を走る丈夫さが必要。
まもなく大地溝帯を抜ける。
標高差が数百mはあるだろうか。
人類発祥の地だと言われている。
途中の休憩所。
予想通り、しつこく土産物の売り込みに来る。
「ヤスイヨ」「コニチワ」等片言日本語が飛び交う。
土産物屋の店内
ところせましと野生動物の置き物がぎっしり。

でも価格表示は一切ない。まずは数倍の値段をふっかけてくる。
あとは交渉次第だが概して品質は良くない。

途中で給油によったまち。
周囲には多くの男達が仕事も無さそうでたたずんでいる。
外国人が車外に出るのはトラブルの元だ。
マサイマラ国立公園にむけて悪路を進む。
雨季ならタイヤがめり込み、とても走れない道だ。

砂ぼこりもひどく、女性達はマスクをした。
牛を追うマサイ族がいたるところにいた。

6時間の走行後にロッジに到着。
ここは荒野の別天地である。
西洋人たちがプールで遊ぶ。
でも暑くはない。夕刻にはめっきり冷え込んできた。
ロッジの庭で見つけたアフリカのトカゲ。
保護色を使い分けるようだ。
こんなのが部屋に入ってきたらコワイ。
ナイロビではまだ咲いていなかったジャガランダが咲いていた。
9月のシンボルフラワーである。
夕刻からサファリ(ゲームドライブ)に出発
車の天井がオープンしたサファリ専用車である。
タンザニアから国境を越えてきた数えきれないヌーの大群
地平線まで続く群れだ。出エジプト記はこんなのだったのかも。
サファリカーの動きが激しくなった。

ライオンがいた。メスが2匹寝そべっている。
無線で連絡を取り合ったサファリカーがどんどん集まって取り囲む。安眠妨害かもね。でも昔は銃を持ったハンターがサファリに来たのだから今は平和共存かな。

ライオンの夫婦がいた。
メスがオスに近づくと
オスはまさに交尾にかかる姿勢をとった。
合体中のライオン夫婦。
子孫を残す自然の摂理だ。
ロッジの部屋は自家発電で深夜は停電となる。
でも蚊帳もバッチシ、ベッドには湯たんぽまで入れてあった。
夜はけっこう冷え込む。

5日目に続く