大河を越えて 地下組織 アンダーグラウンドレールロード 

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オハイオとはインディアンの言葉で美しい河を意味する。
その名のもとになったオハイオリバーは5大湖のひとつエリー湖の南の山岳地帯に始まり
延々と南下し次第に川幅を広げ西に流れを変え北米大陸を南北に分ける如く遥か西の
ミシシッピ河に合流して最後はメキシコ湾へとその数千キロに及ぶ長い旅を終える。
流れはどちらが上流かわからぬほど緩やかで古くから水運が発達し河に沿って都市ができた。
鉄道や道路が整備された現在でも鉱石や石炭を運ぶはしけが行き来している。

1865年までこの河より南の州では奴隷制度が存在していた。
厳しい労働と家族の引き裂き等虐待に耐えかねた何人かの黒人奴隷たちは自由を求めて
北部の州に逃げることを試みた。しかしこの河には当時多くの橋はなく逃亡奴隷たちは闇夜に
泳ぎ渡ったり冬期に凍りついた薄氷の上を命がけで逃げ渡ったと伝えられる。
しかし苦闘の末、オハイオリバーを越えても安全ではなかった。
北部でも法律上は奴隷のままであり逃亡奴隷の捕獲を商売とする荒くれ男達につかまれば
再び南部の農場に引き戻された。彼らを待ち受けていたのは見せしめの更に残酷な仕打ち
だったことは想像に難くない。
彼らが自由を得るには遥か北部の国境を越えカナダに逃げ延びなくてはならなかった。
食料も衣服も靴でさえ身に付けていない逃亡奴隷たちには数千キロの道を逃げとおすの
は不可能だった。
ここにアンダーグラウンドレールロードと称された秘密の地下組織が存在した。
彼らの組織はオハイオリバーのほとりからカナダの国境まで主要な街から街へと連なっていた。
彼らは逃亡者に食料を与え病や傷の手当てをし地下の秘密の部屋に匿い次の街の同志まで
カムフラージュされた2重底の馬車等で運んだといわれる。
当時はこれらの行為は違法であり奴隷捕獲業者に見つかれば命も危なかった。
しかし彼らは「我々は人が作った法より神の造りたもうた法に従う」と信念を曲げなかった。
南北戦争終結後でさえこの組織の存在は公にされず歴史の流れに密かに埋もれていった。

私はオハイオ南部のスプリングボローという小さな街を訪ねた。
今は数分も歩けば通り過ぎるほど目立たない街だが1850年代ここは地下組織の中心であった。
この街のクエーカ教徒が中心になって活動したといわれ今でも多くの住居には逃亡者を匿った
隠し部屋が残されささやかな資料館もある。
教会の牧師は密かに南部の農場にまで遠征し奴隷たちに逃亡を勧めたとされる。
案内してくれた婦人は「当時、大多数の人は彼ら逃亡奴隷を助けようとはしませんでした。
でも私たちの先祖は法に逆らってでもそれをやったのです。それは私たちの誇りです」
と言った。事実この街では40年間に4000人の逃亡奴隷を救済したと記録されている。

さらに私は南部のケンタッキー州との州境、オハイオリバー沿いの古い街リプレイを訪ねた。
ここにはアンダーグラウンドレールロードの博物館となっているランキンハウスがある。
ランキンは当時この地域の牧師で奴隷制度廃止運動の支援をしながら地域の新聞に協力者を
募る投稿を続けた。
ランキンの家にも隠し部屋があり2000人の逃亡者がここを経由したとされる。
オハイオリバーを見下ろす丘の上に位置するランキンハウスは対岸のケンタッキーからも
よく見えこの家の明かりを目印に奴隷たちは河を渡り最後の力をふり絞って急な坂を登った
と伝えられる。

1820年から1860年までおよそ4万人の奴隷たちがオハイオリバーを渡って北部に逃げたと
いわれる。まさにオハイオリバーは自由の地への障壁のシンボルであった。

ランキンハウスよりオハイオリバーを見下ろす。
対岸はケンタッキー州



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