アマニアフリカのロゴ Amani(アマニ)とはスワヒリ語で平和の意味

赤は赤道、虹は苦難の後の希望と違いを超えて生きる架け橋となることを意味しています

妻としてそして民族を超えた

      母としてアフリカの地で生きる市橋さら  1956年生まれ

左上から長男ヨシュア・次男エリア・長女ハンナ・隆雄・さら・リベカ・ノア市橋さらさんは隆雄さんとスラム住民の救済活動を続けており教育がなく貧しい人たちに単なるモノを与える援助でなく自立を支援するための活動をしています。また貧富の極端なアフリカでは持てる階層から持たない階層への援助と理解が不可欠とし幼稚園を設立し園長として比較的恵まれた階層の幼児とその親にも全ての人を愛することのできる人間として親子共に成長するよう実践と啓蒙活動をしています。また家庭では長男、長女、次男の3人と孤児院にいた幼児2人を養子にむかえ、その子達の母として多忙な日々をこなしておられます。
「市橋隆雄さんを支える会」はさらさんの来日に際し懇談会を開催しました。ここにその全文を公開いたします。

 


市橋 さら さんとの懇談会 
            2001年7月28日 亀山市総合保健福祉センター

私の講演内容は改ざんしない限り自由にコピーしこれを活用することができます。
ただし営利目的にこれを利用することはご遠慮ください。
                   市橋さら   2001年7月29日

 皆さんこんばんわ、市橋さらです。
 「こんばんわ」はスワヒリ語では「ジャンボ!」って言います。講演中のさらさん

 日本では、ケニヤのことというと、たとえばいかりや長助さんがすごくアフリカが好きで、彼が来るとしょっちゅう番組ができるのですが、自然とか動物とか、日本にはあまりない変わった古い伝統的な生活とか、そういうどうしてもマスコミ受けのいい部分に重きがおかれてしまい、私たちが普段見ているケニヤとはちょっと違うかなと思うことがあります。
 あるいは、アフリカでは虐殺事件とか――今でもソマリアとかエチオピアはたいへんなんですが――それも最初のときだけ報道されて、あとはニュースにもなりません。ある記者が、「一生懸命書いているんだけど、ちっともニュースにしてもらえない」ってよくこぼしておりました。
 アフリカは遠いし、直接日本の私達の生活にあまり影響がないのでニュース性が乏しく、よほど茶の間の話題になるようなおおきな事件でもないとなかなかニュースにならないのです。

 そういうなかで、主人がここ亀山市の出身ということで、中学時代のお友達が皆さん結束して私たちを支える会を作ってくださって、この一年間いろんな活動をしてくださったことは、ほんとうに感謝です。
 私たちは、そういう方々が日本にいてくださるということがどんなに大きな励ましになっているかをぜひ皆さんに知って頂きたいと思っています。
 また、今日もこんなに大勢お越しくださって、私にこのような話をする場で与えてくださり、ほんとにありがとうございました。
 ささやかなことですけど、私の話を聴いてくださり、共に分かちあい、「ああ、そんなところ、そんな人たちもいるのか」と少しでも知ってくださる方が増えるとしたら、それは私たちにとってすごく大きな励ましです。

 主人が去年こちらに来ましたときに、どうしてケニヤに住むことになったのか長い話をしたそうです。ですから、そのときいらした方も、そうでなかった方もおいででしょうけど、今日は特に私達は今なにをしているかをお話したいと思います。


 私たちがともにケニヤに参りましたのは1978年でした。
 私は大学を終わってすぐに、主人は海外青年協力隊の後、再びアフリカにきたのです。
 私はクリスチャンの家庭に育って、アフリカに宣教師になって来たいという夢をずっと持っていました。それで、いったいそこにどんな人がいてどんな場所なのかをまず見て来たいと思い、ケニヤの共通語であるスワヒリ語を学ぶ学校に来たのです。
 そのときに、主人も同じその学校に来ていてそこで知り合ったんですが、それがもう20数年前になります。
 その後、半年間スラムでボランティアとして働いた後、日本に戻り、9年かかりましたけど、いろんな準備をして、1988年に家族で宣教師としてケニヤに戻りました。

 最初私はスラムで働いていたので、そこの人たちがあまりに大変で困難な生活の中でも明るく生きている、でもやっぱりまだまだ助けが必要だから、「助けよう」と、ずっと頭に持っていたんです。でも、私たちには「助ける」って言うことは本当にはできないとわかりました。
 ただ、一緒に生きる中で、私が持っているものを分かち合い、彼らが持っているものを私達がいただく、そういう中で一緒に助け合うことはできると思いました。
 よく宣教師とかNGOでいらっしゃる方は、すぐに何かをはじめてそして何か成果をあげていかなければ――そうしないと日本からの援助もないし、日本の方々にも納得いただけない――と一生懸命なさるんですが、そうするとどうしても、一方的に何かを与えるということになりがちなんですね。
 これからの世界は、経済的に豊かになった国が経済的に貧しい国を一方的に援助するだけではいけない……というか、そういう援助の仕方はもう過去のものになりつつあると、私たちはずっと感じてきました。 だから、ではどういうかたちで助け合っていこうかと考えているわけです。
 
もちろん、派遣されていた主人は大学で教えながら、そこに集まるいろんな国のアフリカの人たちと助け合ってきましたし、私はスラムの中で働きたいという思いがあって、スラムの中の教会をずっと手伝ってきました。
 けれど、スラムにある幼稚園を手伝ったり家庭訪問をしたりはしてきましたけど、実際その人たちの食糧援助をするとか、なにかプロジェクトを始めて自分たちが具体的にそれを運営するとかはしないできたんですね。
 私たちとしては、それをするんであれば、市橋だけではなくてケニヤの人たちと始めたいと思っていました。
 ですから、一緒にやれるケニヤの人たちを与えられたいとずっと願って来て、そうして与えられたバエさんご夫婦と一緒に5年前から教会を始めています。
 その教会は、ケニヤの国の中で教育を受けケニヤの国の中で恵まれた立場にある人たちに、ケニヤの国の人たちの貧しさとかいろんな問題を考え、同胞に仕えるような、そういう人たちを育てようという目的で始めたんです。
 少しずつ彼らと相談しながら、ケニヤの人たちを巻き込んで――13年もかかってやっとかって言われそうですけど――これから始めようというところです。

 
幼稚園のクラスのひとつ 私はかって幼稚園の教師をしていたので幼稚園を始めることにしました。
 最初は貧しい人たちのための幼稚園を始めるつもりだったんですけどいろんな許可を取るときに政府の役人にあなたは外国人だから貧しい人のための幼稚園をやってもらったら困る、それはケニヤ人でもできる仕事だからそれを外国人がやるのは認められないといわれたんです。金持ち相手の学校をやるのなら許可するよと言われたのです。
 そのとき私たちは非常に不本意だったんですけどよく考えた末、考えを転換しそれもいいことかもしれないと。
なぜなら私たちは金持ちの人たちが貧しい人たちに目を向けるようにしたいと思っていたんだからそういう中で教育の技を通してそれができるかもしれないと、それなりの月謝を取ることができるからその収益も貧しい人たちのプロジェクトに使えるんじゃないかということです。そして教会も少しずつ成長していきました。
そういう中で私たちはいつも愛と尊敬と奉仕の3つのことをいつも考え共に生きる、相手を愛して一緒に生きる、相手を尊敬する、そしてその人のために何かをするそういう心がないと共に生きることはできない、そういうモットーを持っていこうと。ですから幼稚園でも愛と尊敬と奉仕を掲げて毎日の教育をいたしております。


 アフリカっていうのはすごい貧富の差があるんですね。誰が一番お金持ちかって言えば大統領なんです。
最近、日本のODAがいろいろいわれています。ケニヤの一部の人たちに不正なそして莫大なお金が渡ったんじゃないかと。
日本はケニヤの中での第一の援助国です。いろんなプロジェクトが行なわれていて人材も派遣されてJICAのオフィスも非常に大きなものです。
最近はわいろも減りましたけど以前はケニヤのために橋を造るとお金が大統領に流れ建設大臣に流れその地方の役所関係にも上から下までお金が流れて日本から建設のために来た方たちが自分たちは気持の上ではこの国を助けたいと思っているのにどうしてこういう金を使わなくてはならないのか非常に矛盾だとおっしゃっていました。とにかくそういう意味で政府の人たちが一番のお金持ちなんですね。それと外国の資本をもってビジネスをやっている人たちがお金持ちと言われています。
そして中クラス、ちゃんと職業を持ちネクタイを締めている人たちがいます。

 でもずっと下のほういわゆる肉体労働をしたりお手伝いさんをしたり庭仕事をしたりガードマンをしたり工場で働くそういう人たちが人口では圧倒的多数です。
ですからスラムにはそういう人たちが住んでいるわけでけっしてホームレスの集まりではないんですね。
低所得者が田舎から出てきて住むところがなくてスラムに住む、でもその中から少しずつ生活を向上させてもうちょっといい住宅地に移っていく人たちもいます。
でも今、深刻な経済の不況なのでなかなかスラムから出て行くことがむずかしいそういう状況ですね。

 こういう中で教育の差が貧富の差から始まっていくのです。私達の幼稚園はそれこそお金持ちの幼稚園で外国人たちがたくさん来ているので月謝が高いんですね。スラムの幼稚園だったらほんとにその2%くらいの月謝なんです。収入も0が2つか3つ違うくらいの差があるんです。そして教育費がそれに伴って違ってくる。
 ですから幼稚園を始めましたけど、スラムにも同じような質の幼稚園を始めたいと思って、先生やそこで働く人達をトレーニングしている段階です。
 日々の幼児教育の中でその3つの言葉、愛、尊敬、奉仕を教えますがなぜ金持ちに教育をするんだっていわれた時に私たちは子どものうちから人に仕えることを特に裕福な家の子どもたちに教えたいと思っています。なぜなら智恵を得られればその智恵を使って金儲けをする。貧しい人がいることで各国から援助が来ることをいいことにその援助を貧しい人たちにじゃなくて自分のものにしている人たちが多い中でそういう家庭の子どもたちというのは非常に甘やかされています。
 物質的にとても恵まれていて休暇のたびに外国旅行などをしている。そんな家庭の子どもにそうじゃなくて愛しあって助け合って尊敬しあっていくことを教えたい。
 主人はキリスト教の大学で教えていまして将来、人に仕えるリーダーたちを育てるって言っているんですけどそこに来ている学生たちは非常に自分中心だし学校内も汚くするし環境に対して責任をもつこともしない。
 教会の礼拝に集まった人たち主人はもう大学生では遅すぎる、あなた2歳か3歳くらいから始めなさいって私に言うんですね。
 ですから今幼稚園には大統領の孫もいますので大統領の息子の奥さんなんかにも貧しい人たちに仕えることが大切だからおじいちゃんにも言いなさいよとまでは言いませんけどそういうことが伝わっていくようにと心がけています。



 この国では貧しい人たちにいくら援助しても上の人たちの頭が切り変わらない限り非常に難しいということも感じてきました。私たちは両方にアプローチしようと、教会では、けっこう上層階級の人たちとその家で働いている人たちが一緒に来ているんです。
 そういう教会はケニヤでは非常に珍しいのです。普通は貧しい人は貧しい人の教会、金持ちは金持ちの教会というのがあってそこに通うんです。
 私のうちにもお手伝いさんがいるんですけどその人も一緒に行くし近所の人たちも一緒に来て礼拝をして一緒にお茶を飲んで楽しくし、そういう場というのはケニヤの社会では他にない、教会しかないのに教会でさえも階級に分かれている悲しい状況があってそういうところからも少しずつ変えたいと願っています。


 振り返ってみたらけっして華々しいことをしてきたんでなく日本のマスコミに訴えられるような、こういう施設を創りました、こういう子達何人に毎日給食を与えています、とかそういうことは今まで私たちはまだしてきていないんです。
 できればそういうこともしたいけれどそれは日本人である市橋がするんでなくケニヤ人の人たち、ケニヤ人の教会の人たちがやる、そういう中で私たちはメンバーの仲間として日本人であるが故に持っているいろんな日本人の良さ外国人であるがゆえに持っているアイデアを入れながら一緒に働く事ができたらと願ってきました。
 皆さんTシャツにアマニアフリカとスローガンがありますがアマニとはスワヒリ語で平和という意味です。
平和というのは戦争や争いがないって言うことなんですがなぜ戦争が起こるか、それはアフリカの場合は自分の部族を主張し自分の存在を主張するからぶつかり合うんですね。
 ちょっと余談ですけど日本では総理大臣が誰になろうと世の中がひっくり返ることはまずないわけで私なんか遠くにいて日本の総理大臣だれなんて聞かれると一瞬だれだったかな、なんてわからなくなっちゃうことがあるんです。でもアフリカではだれが大統領か、そしてその人がどの部族の出身かで国がもう全く違う方向に行ってしまう、あるいは自分の出身地の人が大統領になれば天国の暮らしになり、そうでなくて相対する特にあまり良い関係でない部族の人が大統領になると今までの高い地位も全部ひきずりおろされて最低の暮らしをしなければならなくなる。そういうことがあり、非常に強く自分を主張しますね。
 それが一緒に生きることを妨げ部族の違いが国を分け国の中に争いを持ってきてしまう。
 そういう中で私たちは一緒に生きる、部族も超えるし国境も越えるし人種も超えて一緒に生きることがそのアマニを実現させる一番の鍵じゃないかと思ってアマニアフリカというスローガンを掲げています。
 
 よく日本では何かちょっと違う人が来るといじめられるとかで皆と同じにしていないといけないとか、これから日本に帰ろうとする小学生くらいのお子さんを持つお母さん達がすごく言うんですね。日本に帰ったら絶対個性を主張したらいけないんだよ絶対静かにしていなくちゃ駄目だよとか、それってすごく辛いことじゃないかって思うんですけど。

 私は個性とか違いとかユニークさが素晴らしいと思うからアフリカに行ってアフリカ人のためになんかするならアフリカ人にならないといけないなんて全然思っていないんです。だってなれるわけないんですから。私は日本人で日本人らしさとか市橋さららしさで良いんだと。
だからその違いの中で一緒に生きれたら素晴らしいなと思っています。

 ケニヤ人にもいろんな名前があるんですけど日本人ぽい名前の人もいるんですね。キハラって言う名前があるんです。
 キハラって何かというと頭がはげている意味なんだそうです。
 主人はケニヤ人から市橋おまえのなまえはどんな意味なんだって聞かれた時に、いちは街のことでまちの架け橋になるんだって自分の名前の意味を勝手につけているんですけど。
 そういうふうにアピールするんですね。そうかじゃこの虹は2つの違いのある街、もしかしたら亀山とナイロビかもしれないし日本とケニヤかもしれない。
 その架け橋になれたら素晴らしいなあって思います。ナイロビでは雨季にはよく虹を見ます、すごくきれいな虹が見えるんですね。何度みても素晴らしいと思います。
 雨季でこっちはザンザン降りでもあっちはからからに晴れてこっちの窓は雨、こっちの窓は晴れその真中には虹があるんです。
 だからこんなに雨が降っていてもこっちをみたら晴れている、だからどんなに苦労があってもその間に虹があってそこには希望があるって私たちはいつも虹に教えてもらっているので、このTシャツを見て素晴らしいと思いました。
 そういう意味で今私達のしていることはけっして大きなことでもなんでもないけど人々の心に訴えてその中に虹が架けられていったらなあと思って日々活動しているのです。


 今月の初めに、主人はケニヤの北部にあるサンブルという地域に行きました。
 サンブルというのは部族の名前でもあるんですけど――皆さんマサイ族ってご存知ですか、赤い布を巻いて髪に泥を塗って、よく日本でも紹介されますが、そのマサイ族との兄弟部族です。かっては同じ部族だったんですが、戦いがあって分かれていったので、言語的にも60%同じで40%違うという、そのサンブル部族が住んでいる地域です。
 私達の教会もいろんな部族の人がいるのですが、教会の門番をしている人がそのサンブル族なのです。
 そこへ行くには大体400kmくらいの距離なのですが、最初の200kmは大体舗装道路で、つぎの100kmは一応道はあるけど、最後の100kmは道無き道です。小さなバンで行ったんですが、そのサンブル族の彼があっちだこっちだって言うからガタガタ道を行ったら、目的地に着いたそうです。

ナイロビで働くサンブルの人と長老 去年、ケニヤはものすごい干ばつに見舞われました。
 私たち街に住むものも、水がなくて困ったんですね。ほんとに水がないんです。朝から晩まで水が一滴も出ず、3日も4日も出なくて、一日バーッと出るからその日にありったけの入れ物に水を貯めて、お風呂にも少し入れて家族みんなの身体を洗って掃除に使って、一番最後にはトイレに流す。トイレは小水くらいだったら流してはいけないんですね。
 去年日本に来て子どもたちがトイレを流さないんですね。なんでトイレ使って流さないのって言われちゃって、すみませんアフリカから来たのでこうこうこういう事情でって説明したらわかっていただけましたけど。
 
 街でもそういう状況ですから、雨水に頼って生活しているサンブルの人たちのところは、全然水がない。
彼らの財産は家畜です。作物を栽培しないので、家畜を売ったお金で野菜やウガリというトウモロコシの粉を買って食べます。
それなのに牛やヤギたちがどんどん死んでしまったので、私たちのところで働いている人の家族は瀕死の状況になり、たまたま死んだキリンを見つけそれを食べてみんな生き延びたそうです。
彼の奥さんは妊娠していて、水を汲みに行って帰る途中に産気づいて潅木の下で休んでいるときに子どもを産んだ。
そうしたらハイエナが来た。ハイエナはもう餓えていますから、もう少しでハイエナに襲われるときに、たまたま別の人が通りかかって何とか助かった。

 それを聞いた私達の教会のバエさんはその話を心に留めていて−−−彼は街の人間で一流の大学を出た弁護士ですからなに不自由ない暮らしをしているんですけど−−−どうしてもこのサンブルの人たちを助けたいと言い出したんですね。
私たちは他のグループと一緒にサンブルに行ってこの人たちを助ける必要がある。なぜならこの村で苦しんでいる人達のお父さんは私達の仲間じゃないか、私たちはお互いが愛し合い助け合うって言っているのだから、仲間が苦しんでいるなら助けようじゃないか、と彼が言い出したのです。私たちはそれが彼から出たって言うことがうれしくて、もちろんそうしましょうと主人とバエさんとサンブルの人たちが何人かで、どんなことをしたら助けることができるか、私達に何ができるか、どんな必要があるか、食べ物を届けるだけではほんとうの助けにならないから、調査の意味で旅に出ました。
 5日間の旅で、途中いろいろ強盗が出たり銃を持った盗賊が出たり、危ないので心配したのですが、このあいだ無事に帰ってきました。


 サンブル族は家族で住んでいて、敷地を丸太の柵で囲い、その中に4、5軒の家があります。
おとうさんを頭に兄弟たちの家があって、木の骨組みに牛の糞と泥を混ぜて壁にした家で、その中に住んでいるんですね。
雨季でどこにでも水があるときは同じ場所に定住していますが、水がなくなると家畜を連れて水のあるところに移住するのです。
主に男の人は赤いものを着て、女の人はブルーの服を着てきれいなビーズをしています。
主人が言うのには、ほんとうに貧しい、貧しさの原因は何かって一言ではいえない。
先ず水がないことなんです。この傍に泉みたいな場所があるんですね。
泉があるんじゃないかっていってみると温泉のように湧いているんです。なめてみたら塩辛い。サンブルの家の周囲
ケニヤは火山帯の大きな断層があるところで、今でも温泉があったり泉が出ているんですが、塩水湖が非常に多いんですね。
これが真水だったらこの地域はもっと豊かになるはずですけど。
それで雨水に頼っているわけですけど、たまたま溜まった水を家畜も飲み自分たちも飲むし洗濯もし身体も洗う、そうしているからそれが枯れたらおしまいなのです。

 それから、古い伝統の元に生きているんですね。
別に彼らがそれで幸せなら文明社会のものを持っていく必要はまったくないのです。
ですがそれが故に貧しさを増しているとしたらどうでしょう。
サンブルでは少年が青年になる間にモラーンといって槍を持って旅に出るんですね。
長い人は10年くらい回ってくるんですよ。
 そして、昔は何もないブッシュの中でライオンを倒し、自分を鍛えて戻ってくると儀式をして大人になり、結婚できるんですが、今は若い人たちが髪を泥で固めビーズを首に巻き赤いものを着ていろんなところに行くんですね。はだしで歩いていくんです。
そうすると観光客が写真をとったり海岸地方のリゾートホテルに行っていわゆる男の売春夫になって外国から来る女性たちを相手にするわけです。
あるいは、自分たちも貧しい女の子と遊んだりしてエイズを持って村に帰ってくる。
そして、今度結婚する場合、奥さんはお金しだいで何人でももらえる、それと伝統的に女の子達は学校にもほとんど行かせない。

女は生れてから水汲みと薪拾いとちょっとした調理をする、家もそれを組み立てるのは男じゃない全部女の人がするんです。
移動するときもこの家を壊してそして荷物を背負ったり牛にくくりつけて移動してまた移動先で泥をこねて家を作る。
女性は働くために生れてきたのだから勉強は必要ない。
 そして子どもを産む。でも衛生的な基礎知識もないし、少ない知識の中で子どもを育てて女の子は労働力になる。
男の子はチャンスがあれば学校にもいけるしそうでなければ牛を追っている。
成人した男は何をしているかって言えばいつも話をしているだけなんです。
あー今年は雨が降らないから移動するかとかあっちへいくかなこっちにするかな、だれとだれを結婚させようかとか。
だから男は何にも働いていないわけなんです。
そんなこというと怒られるんですけど女の人は乾季になればなるほど遠くへ遠くへ水を汲みに行かなければならない。
そして木を切っちゃうんで砂漠化が進み、薪にする木もどんどん遠くまで取りに行かないと拾えない。
男はそんなことお構いなしで水がとうとうなくなって一日で行って帰れなくなったら動こうかなあと言い出す。
そういう人たちに対して何ができるでしょう。

サンブル族のひとたち あるNGOが来て小学校をぼんと建てたらしいんですが、その後の運営が全然できていない。もうなんか廃墟のようになっている。それから小さな診療所を造ったはいいけれど、来てくれるスタッフがいないので結局何も機能していない。
 そして宣教師が造った大きな病院が遠くにあるんだけど、ほんとうに病気になってこれ以上どうしょうも無いというときにしか連れて行かない。そのときはたいてい死が近いときなのです。そんなことで、医療もケアがされていないのです。
 そこにも小さな教会があるのですが、集まってくる人たちが現金収入を持たないので牧師さんは非常に貧しい生活をしているんです。
 主人が帰ってきてこれから相談するんですけど、やらなければいけないことはいっぱいあるんだけど何からやったらいいか。ただモノを送り水が近くで得られるだけでいいのか。私たちは、心もケアし、彼らが自主的に、できれば定住しながら生活の安定を少しずつやっていけるようなことを助けたいと思っていて、今ひとつ考えているのは水の問題ともうひとつは母子衛生の問題です。

 
私は東京にある愛育館病院に行ったときアイデアをいただいたんですが、今の天皇陛下が愛育病院で生れたときに――戦争前のことですが、国から母子衛生のために何かしてくれと寄付をいただいたそうです。その寄付で、地方の母子衛生向上ということで、地方の学校の校長先生の奥様とか、村長さんや町長さんの奥さんを呼んで、その人たちを訓練して一般的な公衆衛生とか母子衛生を教えて、そのひとがいろんな人に教えるという方法を採ったんだそうです。
 私はそれを聞いて、それはいい考えかなあと思いました。女性たちはけっして身分は高くないけど、たまたま教育を受けたような人たちもいるんですね。そういう人たちを街に呼んで、もう少し深い知識を与えて地方に帰ってもらい、彼女らが何か指導できないかと考えています。
 そういう研修プログラムならサンブルだけでなくほかの田舎にも使えるんじゃないかと。
 
 これからは、定期的にサンブルを訪ねていこうと思っています。皆さまからいただいたお金は、この間これに行くために使いました。
 主人はもちろん運転はするんですけど、自分が運転していたらそれだけでもう疲れちゃうし、行ったことのない道無き道を運転するために、プロの運転手を知り合いの旅行会社に頼んで雇い、4輪駆動車とバンとで行きました。それから、今回はどんなところに泊まれるかわからないので、近所のホテルに泊まるのにも使わせてもらいました。
 主人は、今度はこの囲いの中に自分の家を建てておいてくれって頼んだそうです。今度来るときはそこに寝るからって。
 私たち市橋家は別荘をサンブルに持つことになりそうです。まあそうなれば宿泊費なんかは要らないんですけど。
でも彼らの食べるものを私達が食べるわけに行かないのです。
今この人たちの食べるものは外国からの援助でウガリの粉が月々あてがわれていますが、それ以外には食べるものがない状況ですね。
台所だと言う、家具も何もない部屋には何もなく粉が入った袋が置いてあるだけでした。
主人たちは、訪ねるときは手ぶらではいけないのでお砂糖とウガリの粉とラードみたいな油を持っていったんです。
とにかく何もない台所で一日一回食べられたらいいほうなんです。
この人たちは皆細いです。子どもたちはおなかが出ていてちょっと栄養失調ぽいですね。
それと着る物がほんとになくって、このときは写真をとるのに皆覆っていますけどそれがいっちょらで、若いお嬢さんたちも腰巻だけで上は何にも着ていない。
子どもたちも小さな子はパンツもなくてその辺でおしっこもウンチも垂れ流している。靴も特別なところに行くときだけはく。
今度行くときは衣類も持っていくつもりです。

 そんな状況ですから、サンブル族を助けるのは、私達の仲間の家族がほんとに餓えている、困っている、だから助けたいっていうことに始まっています。
 だから大掛かりなことを何かするより地道な中で、できるだけ一方的にこちらから何か与えるんでなく、彼らと一緒にできることから始めたい。
 保健衛生のこと、あるいは幼稚園が必要だといわれているので――建物は日本円で20万円くらいで建つんですね。けっこう広いこの部屋の半分くらいの建物を、それこそトタン張りでできるんです。――そういうのを造って、ケニヤ人の先生を派遣できないか。
 あるいは、サンブル族の女性でそういうことをしたい女性をナイロビでトレーニングして戻してあげれば良いんじゃないかとか。
 そういうアイデアが出ている段階です。


 ところで、私たちがスラムで救済活動をしているってよく書いていただいているんですが、ここ2−3年はスラムに毎日行ってはいないんです。先ほど申し上げたように、ほんとに長期的な意味でよい仕事ができるために、教会と幼稚園作りをしてきました。やっぱり私たちの使命は教育だと思うので、具体的に何をするか、ということです。
 スラムでのストリートチルドレンといわれる子どもたちは、親が必ずしもいないわけではないんですけど、決まった男がお父さんでないため兄弟皆お父さんが違ったりなどいろいろあって、学校に行かずにある程度になると家を出ちゃうんですね。
 ほんとに狭いところにいっぱい住んでいるので、そういう子ども達同士で集まって住んでいたりして、車が停まる交差点とかショッピングセンターで「お金ちょうだい」と言うんです。でも私たちはけっしてお金はあげません。朝から目がなんか変な子がいて、お金をあげると、シンナーみたいなものを買う。そんな子にはあげない。
 食べ物をあげる人がいるんですね、おなかがすいているから。けれども、小さい子にあげると大きな子が叩いてとってしまう。
それでもその食べ物を食べればいいけど誰かに売ってそのお金でシンナーを買ってしまう。あるいはその食べ物を食べてもその子はけっして自分の家に戻らないし施設にも行かないんですね。
 なぜならそこにいて毎日待っていれば白人とかインド人とか金持ちの人が食べ物をくれるからなんにもしなくても食べていけるので労働しようともしない。
 だから私たちはお金も食物もこの子達にあげてはいけないって言うんです。
 「そうするとじゃーなに、この子たちを見捨てろって言うの」という人がいます。そうは言わないけどただ今、パンを3斤買ったから1斤あげることは私たちにとってできるんですけどそういう善意はけっしてその子達を助けてはいないのです。ほんとうにこの子達の人生を考えた助けをしたいと思っていろんな人たちがそういった子達のための学校を開いています。
 私たちも学校をやったらどうかと、特に教会のご婦人たちの間からも言われていてやろうということになってきているんですがどういう学校にするかです。

講演に集まった市民 日本は受験戦争だといいますけど特に選ばなければどこかの大学に入れますよね。
 でもケニヤには大学が5校しかないんです。
 それを目指して小学校から幼稚園からものすごく勉強して小学校8年生が終わると全国共通の
 テストがあって私立も公立も全部テストを受けてその点によって次の中高が一緒になったセコンダリースクールに入るんですがそのセコンダリースクールは小学校の半分くらいしか数がないんです。
 だから子どもの半分はもう小学校を出たらそれ以上の学校に進学できないんです。
 貧しい人たちはよっぽど頭がいいかでないと小学校より何倍もお金がかかる上級の学校に行かれないのです。
 スラムの子達は6歳になってすぐ小学校に入れる子なんていないのですから始まりが遅れていて受験戦争のなかではとても太刀打ちできないんですね。

 だからスラムの子たちには基本的なことは教えながらもっと生活に必要なことを覚えさせる、そして何か手に職をつけさせ技術を身に付ける学校をやりたい。でもそういう学校はたくさんあるんですね。
 大体は洋裁を教えるか大工仕事とか車の修理を教えるとか、そういう学校はたくさんあります。
 でも今はそういう学校に行って洋裁を習っても全然仕事がないんです。
 今考えているのは芸術に強い学校を作ろうというアイデアがあるんですね。
例えば音楽をやりたい子はブラスバンド、踊りたい子はダンスそれもクラシックの基本から教えていくようなダンス。あるいは運動ならランナーを育てる。
美術面では陶芸とかをやるそういう学校をやりたいなあと思っています。
楽譜を読ませるところから始めるような子どもたちにそういう指導ができないかと思っていますが、そういう面ではケニヤは非常に遅れていますね。
トップクラスの小学校高校なんかは音楽、美術、体育などの時間はあるんですが暗黙のうちに無になるんです。
体育なら数学に、美術は暗記するだけの美術史、絵なんか学校で描かない、音楽も音楽理論は教わるけど歌を歌うとか楽器を使うことは一切やらない。
実技は何にもしないんですね。カリキュラムではしなくてはいけないんですけどしないんですね。
だからケニヤではカリキュラムは整備されているにもかかわらず頭で覚えることを優先してやっている。
いまいち出遅れている情操教育の分野でもっと芸術教育をしていったら将来必ず素晴らしい才能になる人がいると思うんです。

教育大学には音楽科もあってそこを出ている先生等は小さいときからピアノを習ったりしてきた育ちのいい人たちでいい学校で教えたいわけですね。
できるだけそういうひとを雇いたいけどスラムに来てくれる人は少ないんです。
ケニヤの学校ではケニヤ人たちが教えるのが良いけれども外からも刺激を受けられる形にして日本とか日本だけには限らずいろんなところからそういう技術や才能をもった人たち、若い人に限らず日本では最近シルバー協力隊とかあるようですが定年退職した人たちはまだ元気だしそういう方たちがきてくださってもいいと思います。
技術面のことならあまり言葉ができなくってもやれるんですね。いろんな人たちに短期間でもいいから指導にきていただけるといいんじゃないでしょうか。

そんなアイデアがあるって話していたらケニヤの教育省で働いているバエさんの奥さんがそれは本来ケニヤの文部省がねらっていた教育よっていうんですね。
本来はそういう教育をもっとしたいにもかかわらずそれが今は逆行しちゃって全く知識だけの教育になっていると言うのです。
ですからこのアイデアはケニヤの教育の本論を行くという意味でやれるんじゃないかと思っています。

けれどスラムに住んでいる子どもを学校に入れるということは通わせるだけでも非常に難しいんですね。
帰って寝る場所がないから、また同じような子達が集まってシンナーを吸ってしまう。
どんどんおかしくなってしまう、あるいはタバコを覚えお酒を覚えてアル中になったりしてしまう子が多いので生活全体に関わって行く必要があるなど、まだまだ課題はいろいろありますがこの9月からそれをどういうかたちで実行できるか調査を始めていこうと思っている段階です。

《最後に》

講演の準備スタッフとさら・ハンナさん達これらが私達が今考えこれからやっていこうとしている計画です。
こんなときに私たちを応援してくださる方がいることは私たちにとってほんとうに励ましです。
いつも私たちはお金があって何かするんじゃなくてそれが必要だからやる。
ほんとうにそれが必要ならお金は与えられるからあまり心配しないでやろうと今までやってきました。
だからいまも「支える会」ができて助けていただけることは思いがけないことでしたけれどもすごく希望を持ってやれるかなって思っています。
私達の願いは支援活動でお金を集めて送ってくださることは大きな励みです。そして人も送っていただきたいと思います。
それが架け橋になります。旅行に来てくださるだけでいいです。見に来てくださるだけでも良いです。
もし3ヶ月いて何かしてくださったら、そして更にもっと長く居て下さったらもっともっと良いし。
私たちには働き人が必要です。それは日本人だからとかケニヤ人だからでなく、でも日本人がいいところは既にもういろんな知識や技術を持っている。それが恵まれている面でそれをお分けし活用することはできる。
その意味で手伝ってくださる方があったら良いなと思います。

スラムでの学校を作るとき資金をどうするかですけどひとつは幼稚園の親たちにスポンサーになってもらう可能性、もうひとつは日本でいろんな若い人たちと話しましたけども、この誰々さんのために一年の学費を出しますと彼らのおこずかいでのスポンサーも良いではないかと思ったりしています。
学校なんか、かいだるくってやってられないといっている人たちに学校に行きたくても行けない人たちを助けることで何か日本の若い人たちにもケニヤの人たちから学ぶことがあるかもしれないなと思ってそういう橋渡しもできたらいいなあと思っています。

自分のためだけに生き、モノはいくらでもある、そういう中で育った日本の若者たちがモノがない中で工夫しながら生きている人たちから学べるものもあるだろうし、お互いに助け合えることがあったらもっと素晴らしいチャンスが与えられるかもしれない。
それがどういう形で実現するか見ていただきたいしアイデアがあったら教えていただきたいと思っています。

私が皆さまに言いたいのは日本人ってこんなに能力のある民族はそうないと思うんです。私は若い頃は、はねっかえりで私は日本人じゃなかったらよかったのにと思っていたんですね。でも外国で暮らすと私は誰が見たって日本人じゃないですか。私の幼稚園にも日本人の子どもさんがおられますが絵を描かせたら非常に丁寧ですし数字に関しては誰もがクラスで一番なんですね。いろんな国の子どもの中で飛びぬけているんです。「日本人はもう天才ね」って他の先生が言うんです。でも日本にいるとそんなことは思わなくて成績が上や下やで悩んでいて、でもこんなに才能がある民族なんだからもっと世界に貢献できると思うんですね。
お母さんたちが隣の子より点数が悪いから大学へ行けないとか悩むけど高校まで出ていたらこの全世界の中では教育レベルが非常に高い部類に属するんですよ。
これだけでも世界に誇る貢献できる能力を身に付けていると自信を持って欲しいし自信をもったらまた次に進めると思うんですね。だから最近、政党の広告で日本はまだまだって言っていらしゃいますけど経済的にまだまだじゃなくて日本人の持っているほどのパワーのある人は世界にはそういませんよ。
ケニヤ人なら50歳過ぎたらもうおじいさんですよ。主人と同じ歳でもう突然老け込んじゃってね。日本人っていい意味でも悪い意味でも不思議な面がいっぱいあって「ここが変だよ日本人」って番組があるって聞いたんですけどなるほど確かに変なこともあるんですけれど変でもそれを良いほうに使って、もっと自信を持って欲しいです。 

日本人ってけっこう外国人にコンプレックスがあるんですよね。そんなの全然持つ必要がないと思います。私は今は日本人は素晴らしいと思いますね。
それは自負するという意味でなくてもっと世界に貢献できると、それを子どもたちにも、お母さん達にも伝えたいと思います。


《スライド説明》

スラム

それではスライドで説明します。スラムの子供たち
これは20万人住んでいるといわれているスラムでスラムの人たちっていうのは田舎から出てきてまず職を求めてくるんですがもうそのまま居座ってこの子達はスラムで生れた子達です。スラムにもいろんなランクがあります。
一番ひどいのは泥の上に泥をこねて壁を作り上はトタンの家があって千円くらいの家賃からありそれよりも良いのは一応床がセメント壁もセメントで屋根があるのが次の段階、そして次はセメントの家なんだけども5‐6軒の長屋みたいになっていて共用の水場がある、もうちょっと良いのは電気も引かれていて自分の家に水場があります。

この辺は一番ひどいところで雨が降ると下水がないですからダーッと水が流れてゴミも汚物も全部流すようなところです。
この辺に洗濯物が干してあるんですけど干した家の人が全部出てしまうと盗まれてしまうので必ず誰か留守番を置いておかないといけないんです。
でもそういう人を見つけるのは苦労じゃなくて仕事がない人がいっぱいいるから家族の中で誰かは必ず家にいて洗濯物の番をして家の中にいないと泥棒が来て持ってちゃうんだそうです。
ナイロビのいる子は大体ゴムぞうりくらい履いていますね。

20万人住むといわれるスラムの全景

これがスラム全体の写真です。
壁はゴミのビニールとか粉を入れていた袋を張りまくって作っています。
でもこれ全部大家さんがいるんですね。
さっき土地は誰のですかって聞かれたけど元々ナイロビ市の土地だったところにどんどん建っちゃった場所もあれば大家さんがここは自分の土地だから自分で建ててやっているところもあります。

 

 

 

身障者孤児院を慰問れは障害児の孤児院に私たちは定期的にいろんな働きをしていて教会の若い人たちはあまりこういう状況を知らないので連れてきました。
スラムの中では生まれたときに障害があるってわかるとほとんど捨てられてしまうんですね。
社会保障はないし親たちは貧しいしそのこに特別なケアができないのです。
この前に座っている子達は比較的良いんですが後の方の子達は車イスとかダウン症だったりとか脳性小児麻痺だったりとかあるいは耳が聞こえないとか目が見えない子達もいます。
このときは皆で集めた古着を持っていって本とかおもちゃを集めて子どもたちに届けました。

 

 

 

孤児院の台所これは施設の中の調理場です。
薪を使ってやっているんですね。
予算のことも合って燃料も豊かではありません。

 

少女保護施設を慰問
これは姉妹の巣という名の少女の施設でストリートチルドレンとして出てくる女の子たちは12歳くらいから売春をするので、そういうことをさせないために集めてきて一緒に住むホームを作ったんです。ドイツの有志たちがお金を集めて建物を立てました。
そこに住み込んで世話をするケニヤ人のご夫婦がいて彼女は看護婦の資格がある人で少女たちは健康状態が非常に悪くて来るのでいっしょに寝泊りをしています。最近は男の子の捨て子も連れてこられたりしてその子達を他の施設に回そうかそれとももっと広げようか迷っています。

幼稚園

幼稚園のスタッフこれは私がやっている幼稚園で働いている人たちで昨日笹山先生の幼稚園を訪問したときは5人で70人を見てみえるそうでしたが私のところはスタッフにこんなに人数がいるんですね。
こんなに人がいないとできないのかと思うんですができないんですねえ。
これは管理をするために住み込んでいる人。
この人がサンブルのおじさんで警備をしています。
15人の子どもに先生と助手がついて料理をする人掃除をする人がいるわけで2人白人の先生がいて後はケニヤ人です。
私たち外国人が何かやる場合一人でも多く現地の人を雇うようにいわれているので人件費がかかりますけど、何が大変かってこの人たちが自分の身の上で起こることをみんな私のところに言ってくるんですね。
仕事以上に個人の生活にいろいろ関わっていかなくてはならないのでたいへんなんですがそれを嫌がっていたらアフリカでは暮らせないって自分に言い聞かせながらやっています。

これがクラスのひとつですね。
幸いなのはナイロビって言うのは国際色豊かな街なのです。
東アフリカの中心地で国連の事務所いろんな国連のオフィスがあること、それから大使館、商社とか建築会社とかODAに関係するいろんな企業もナイロビにオフィスを置くのですね。国際色豊かです。それと国際結婚している人たちがたくさんいるんです。国際色豊かなクラス
そんなのでいろんな国の子達が集まっています。
これはうちの息子です。これは親友のイギリス人とケニヤ人のハーフの子です。
日本人のお子さんもたまたまこのときは2人いました。
これがうちの娘です。

幼稚園にはプールがあってみんなで泳いでいます。
この日はたまたまお風呂があって遊んでいます。
プールの壁にみんなで絵を描いています。
炎天下で暑くってこれが終わったら泳げるからがんばんなさいって作りました。

みんなでお風呂砂場で遊んでいます。
これはもう2歳位の子でこれが大統領の孫です。
みんな大統領の孫っていってはいませんから知りませんけど。

彼女は音楽の先生でこんな小さな子達にも楽器を使わせて歌を歌わせてリズム感を養ういろんなことをやってくださって子どもたちも楽しんでやっています。幼稚園での楽器を使ってリズム感教育

 




 

外務大臣表彰


表彰式で在留邦人にお礼を述べる海外でその国の人たちに貢献したということで外務大臣から表彰される制度があり1年に数人選ばれるそうでペルー事件で有名な青木大使がケニヤの大使で彼が何かと主人のことを買ってくださって推薦してくださり去年の9月に外務大臣賞を受けました。
ちょっと恥ずかしくて何もそんな華々しいことはしていないんですけど私たちを支えてくださっている人たちのおかげだということでお受けしました。
そのときケニヤに100人近い海外青年協力隊の皆さんが来ているので公邸に何百人か集まってくださって主人がお礼の挨拶をしています。

青木大使から外務大臣表彰を受ける

 

 

 

 

家族

ケニヤでの生活では家事はそんなにしなくても良いんですね。なぜかって言うとお手伝いさんを雇います。家の中を他人に見られたくないって雇わない日本人もいるんですけど私たちはケニヤに住んでいたらそこの人たちにも雇用の機会を与えなくてはいけないと思うのです。私は掃除洗濯をしてくれる人がいるのだからそれに比べて日本のお母さんのほうがずっと大変だと思います。 その分、仕事のこと以上に雇っている人たちのいろんな雑事にわずらわされなくてはならないのですが。でもやはり半分家族ですからその人たちにも皆長く勤めていただいていますし今回もその人たちのおかげで私も日本に来れたのです。私は日本のお母さんにも子育てを楽しんで欲しいです。



長男の卒業式にてこれは長男です。
2番目の子どもで14歳です。ケニヤには8年生4年生のケニヤの教育制度の学校とイギリスの教育制度の学校アメリカの教育制度の学校もあって今、上の3人の子どもは、宣教師の子どもたちのための学校に入っています。
そこの中学校を卒業したときの写真でこの子は1年生から7年生までイギリス系の学校に通っていて去年卒業したんですけどそれからアメリカの学校に編入したのでまた卒業式やって毎年卒業しているんです。
そんなんでだんだん父親に似てきたっていわれている長男です。
これは娘のハンナとなんかパーティがあるときの写真で娘は超高い靴を履いているので背が高く見えますがじつは低いんです。

これが私達の子どもたちです。市橋家の子供たち
長女ハンナと長男ヨシュアそして次男のエリアの12歳です。
リベカ6歳とノア5歳は私達がケニヤで養子にしました。
もう二人とも6ヶ月の時から家におりますしリベカは3ヵ月半のときから知ってて6箇月になるまでいろいろあって家に引き取れませんでした。
家庭では日本語しゃべりますから去年初めて家族7人で日本に来たんですね。それまで子どもたちを引き取ってから養子の手続きを済ませるのにすごく日にちがかかったんです。
リベカに1年半くらいかかってまたノアにそのくらいかかってなかなか国を出ることができなくってはじめて来てどういうふうに受け入れられるかと思いましたけど、みなさんと楽しく過ごしたので今回、私と娘が来るのでずるいと言ってなんのお土産がいいかってリベカに聞いたらママ!まぐろ買ってきてお刺身!なんて。大好きなんです。

ノアはもっといろんな乗り物に乗りたい電車に乗りたい新幹線に乗りたいって言っています。
彼女たちにはケニヤで養子にしたって言っていますけどまだそれがはっきりわかっていないようで日本人のお宅に行くと今日は日本人しかいないね、この家なんて言ってその家の奥さんがエエーッなんてどう返事したらいいのかわかんなかったんですなんて言っていました。

パパと遊ぶノアほんとうに家族として一緒にいますけどけんかもすればノアはパパっ子でパパが大好きです。

私達がなぜこの子たちを養子にしたかって言うと昔からほんとうに親がない子どもを自分たちの子にしたいと願っていたのとアフリカに私たちは生涯を捧げたいという思いがあってそのひとつの証しというかそのひとつのかたちとしてたくさんは見れないけど二人の子どもの将来に対して責任を持ちたいという思いで養子にしました。私がケニヤ人の子ども2人と合わせて5人の子どもを育てていることを見て日本人の方がよくできますねえとか私にはとてもできませんとか言われるんですね。やっぱり実の子と同じには扱えないって言うんですね。私は同じ両親から生まれても皆違うのだから子どもって面白いんで、もしみんな同じような子が出てきたら何にも面白くないし、嫌なだけだろうと思います。だから色が違うとか生まれ方が違うとかいうのは違いの内のひとつでしかないと思うんです。だから子どもたちにも3人は私のお腹から生まれたし2人はママじゃない人のお腹から生まれたけど皆パパとママの子どもなの。それは生まれ方が違うだけでみんな私達の子どもであると話しています。キリスト教的考えであるかもしれませんが神様は一人一人大事な存在として生まれさせてくださったと私たちは信じるので自分の子どももそうだという思うで育ててきました。
でもほんとうに元気で育っていて感謝です。






子犬と遊ぶノア
子犬がうまれたので子犬と遊んでいます。ノアといいます。
ノアというのはノアの洪水のノアでこの子は非常に不思議なことである宣教師の家の前にカゴに入れて置いていかれたんですね。その人たちが朝玄関を開けたら見つけて先ず病院に連れて行ったら病院では何にも病気じゃないから警察に連れて行きなさいっていわれてそしてそこで捨て子の書類を作られてニュライフホームという宣教師のやっている施設に連れて行かれたんです。その宣教師たちは自分たちがその子を引き取りたいと思ったんですけど3ヵ月後に帰国が決まっていてやむなくその施設にこの子を置いていきました。
彼は4ヶ月くらいその施設にいましたけどリベカを引き取った後、私は最初から一人でなくふたりにしょうと思っていて主人は冗談じゃない5人も子どもがいたらどうやって学校に行かせるんだとか言っていたんですがホームにリベカを連れて行ったときに彼が主人ににっこり笑ったらしいんです。
私は最初からこの子がいいなって思っていたんですけど何も言わなくてもにっこり笑った。
そうして家に来ることになりました。ナイロビはけっこう朝晩寒いのに親に捨てられそのとき本当に死ぬかもしれない中で
護られて命を助けられたのでノアという名前にしようと決めました。

リベカはこのあいだ6歳の誕生日でこれで小学校に入れます。
8月半ばから上の子たちが行っている学校に入れるのですごく喜んでいてナイロビにはケーキ屋さんがないのでいつも自分の家で焼くんですけどリベカはイチゴとクリームのケーキと決めて誕生日を迎えました。手作りのバースディケーキを前のリベカ

私たちは子どもを養子にしたいときニュライフホームを紹介されて行きました。
そこはエイズ孤児を引き取っているまだ始まったばかりの施設で男の子が良いですか女の子が欲しいですかと聞かれたときにうちは男の子が2人女の子が1人なので女の子が良いですといったら女の子の捨て子がすごく少ない、これはさっき言ったように女の子は労働力になるんですね、女の子の捨て子の方が圧倒的に少ないそうです。ここの施設は必ずしも養子に出すためにやっているわけではないんですけど希望があれば養子に出すこともあるんです。

2ヶ月後くらいに突然電話があって市橋にぴったりの子どもがいる。その子は髪の毛が真っ黒で長い髪をしている。
アフリカ人の髪はくるくるですから真っ黒で長い髪をした子だからあなたにぴったりだわって電話があったんです。
そのホームへ会いに行きました。もう手足が細ーくっておなかが大きくて目がぎょろぎょろしていてガリガリだったんですね。
確かに髪は真っ黒でケニヤ人とインド人の子かもしれないしもしかしたらエチオピア人かもしれないし結局わかりようがないんですね。
どういう人の子供かは今でも全くわかりませんが、可愛いでしょう!って言われたんですよ。
私のそのときの正直な印象は可愛いって言うかまあなんてこんな楊子みたいな指、可愛いという言葉が出せなくてええそうね位しかいえなかった自分を覚えています。主人はこの子、目が見えているかなっていうんですね。
ほんとうにただ空中を見ているだけでした。お母さんは生んだまま病院から消えてしまって3ヶ月間そこにおいて置かれたんですね。
病院ではそういう子どもにミルクを飲ませる予算がないわけでまあ死んだらしょうがない。
だけど殺すわけにいかないから一日一回だけほんとにちょっとのミルクをカメラのフィルムのキャップがありますよね。
あんなのでぐっと飲ませるだけなんです。
だからもうどんどん栄養失調になっていて3ヵ月半でしたけど2.2Kgしかなかったんですね。そういう栄養状態でした。
それであなたにぴったりだと思う、なぜならもしかしてインド人とアフリカ人の血が混ざっているからアジア人だからあなたにぴったりよって。
インド人と日本人とどこが近いのなんて私たちは思うけど彼らにしてみればどちらも東の方なんですね。
主人はなんだアフリカ人を貰おうとしていたのにアジア人の血が入っているのかなんていいながら、でも私たちは子どもは選べないし選ぶものではないし、その方たちがほんとうにぴったりよって言うんだったらそうだと思って。でもそのときこの子はまだHIVのポジティブでプラスだったんですよ。

その当時エイズのウィルスを持っている子どもたちはアメリカやオーストラリア政府は養子として絶対に認めなかったんです。
日本には多分そういう前例がないだろうからどういうことになるかわからないけど、その頃80%くらいは母乳を飲まない子どもは抗体はあるけれども感染しないとされていて検査ではネガティブに変わっていくって言われていたんです。
私たちはそのことをすごく願っていまして出会ってから2ヵ月後の検査でマイナスだって結果が出たんですがそれまでの間、私は毎日通ってオムツを代えてミルクを飲ませていると、いろんな人が「まあ可愛いこの子を養子にしたい」なんていいましたが「この子は駄目、市橋の予約済」なんて言っていました。

私たちはもしこの子が検査でマイナスにならなくても引き取ろうと決心をしていました。それならこの子を日本につれて帰れないかもしれないけどそれでもいい、この子の命のある限り家族として育てたいと思うほど情も移ったしこの子を愛するようになっていてそしてその検査の結果が出たときはほんとうにもうみんな大喜びで主人はエチオピアに行っていたんですけど通じない電話をしてネガティブに変わったから家にこれるよって、家族で大喜びをしました。
ですから上の3人の子たちももう養子にするってことも一緒に相談していたし皆で可愛がって家に来た頃は誰がミルクをやって誰がオムツを代えて誰がお風呂に入れてって大騒ぎでした。まあ最近はけんかしていますけど。最近べらべらしゃべるもんですからリベカは生意気だなんて。そうやって家族の一員になりました。

最近撮った市橋ファミリー私たちはこのふたりの子どもたちのおかげでほんとうにたくさんの祝福や恵みをもらったと思っています。
これから彼らもいろんな意味でアフリカ人が日本人の家庭に育つというあまり例のない環境をどのように受け止めていくかわかりませんしいろいろ葛藤もあるだろうし親子の問題もあるだろうとは思っています。けれどほんとうに私たちはこの子たちを愛していることだけは変わりないのでそのことを伝え続けていきます。
この子が言うんです、「リベカ大きくなったらママみたいになりたい」って。
「いいわよ、あなたママみたいになりなさい」って言うと、こうやってママみたいな肌の色になりたいって言うんです。
でも主人は一生懸命、陽光に焼けて「リベカみたいになりたいからみてご覧こんなになったでしょ」なんて言うと、「パパ、リベカみたいになりたいんだよね。だからこうやってなっているんだよね」って言います。
私たちはリベカもそしてもっと黒いノアも皆きれいなんだよ。神様は皆違うように創ったから皆きれいなの。「ひとつの家族のそれぞれが違うのはそれは素晴らしいことなのよ」と子どもたちにいつも話しています。

               終わり   2001年7月28日収録

 

市橋隆雄さんを支える会

昨年(
200010月)市橋隆雄さんが一時帰国したのを機会に三重県亀山市立亀山中学の同窓生と亀山市周辺の市民を中心に設立された会で現在140名の会員を有し会費(年間2,000円)とバザー、募金等を市橋さんに送ることで支援を続けています。市民活動やボランティアの経験のなかった素人の集団です。市橋さんはキリスト教の牧師ですが私たちは宗教活動とは全く関係ありません。また入退会と活動参加は本人の自由意思で義務はありません。年一回の定期総会で会計報告案と活動計画案の承認を得、定期に会報を出しております。

連絡先 Email  pcnandemokoiアットgmail.com
ホームページ http://kirakame.sakura.ne.jp/amaniafrica/sasae/

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