2000年11月10日「市橋隆雄さんを囲む会 講演会」(三重県亀山市にて) P3

 では、なぜ私がアフリカに行ったかということを、少しお話したいと思います。

 私がアフリカに始めて足を踏み入れたのは、1976年の青年海外協力隊に参加したときでした。エチオピアに農業隊員として、野菜の栽培に参加したのです。

 嬉野の農業大学校で訓練して行ったわけですけど、なぜその協力隊に参加したかというと、またずっとさかのぼってお話しないといけなくなります。

 かいつまんでお話しますと、ちょっと抽象的になりますが、少年期から大人になる時期――昔では元服とかやったときですけど――自分というものに対面させられる時期があります。
 ぼくも、ある出来事を通して自分自身というものに対面させられたわけです。
 ぼくは、自分の思っていることを貫けない、すぐひるんでしまうそんな自分に対面して、そんな自分に嫌悪しました。
 そして出た結論が、自分に妥協しないことでした。これは、それからの私の生涯をかけての決意となったわけですけど、自分の進んでいく道を選ぶとき、いつも「こいつはやばいなあ」と思う方を取ることです。
 皆さんも毎日毎日、自分がどちらを選ぶか、どの道を行くか、選択を迫られることがあると思いますけど、ぼくは、いつも危険が予想される何か、これを行くと自分が失敗しちゃうんじゃないかな、あるいはまずいんじゃないかというほうをあえて選んでいく……むしろマイナスの方にかける、ということを決意したわけです。
 そうすると、顔が震えてファイトが沸いてきます。

 台風のときなどに外を歩くと、なんかファイトが出てくる。そういう経験をされた方、いらっしゃると思いますが、ああいう感じです。それがそのとき考えた私のモットーであって、10代後半から20台半ばにかけて、ずっとそういう生き方を貫きました。
 そうして、生涯私がやる天職というか、そういうものを捜し求めたわけです。

 一応大学に入りましたけれども、当時は学園闘争で閉鎖されていて、ことごとく皆で何かをやるのが嫌で、一人でアルバイトをしていました。それももっぱら肉体労働で、労務作業や地下鉄工事や神戸港で船の横についたさびを落としたり、私は高所恐怖症なんですが――今も怖いですけど――そういうのにチャレンジして窓拭きの仕事をしたりとか、遺体を監視したり――ホルマリン漬けになっている遺体を浮いてくると沈めたり――、それから、京都では瓦職人をやったり、測量の仕事で山の中を歩き回ったりとか、この辺まで髪の毛を長くして日本中を放浪していました。
 ここには国鉄の方いらっしゃらないと思いますが、僕はキセルばっかやっていました。


 そうしていろいろやりましたけれども、これをやって生きるんだというものを見つけることができないまま、今度は修験道に興味を持って吉野の大峰山にしょっちゅう入っていました。
 そして修験道の山に入ってとにかく山に伏し山を駆け自然の中に生きるしか自分には残されていないんかなあと、それ、で山の中で自給自足するために農業の勉強をしようと、嬉野の農業大学校に入ったわけです。

 で、そんなときに、僕たちの中学校の同級生であった山川真君(通称マコちゃん)に会いました。彼もホテルの学校へ入ったんですが、ホテルを辞め、輸送船の外国航路のコックをしながら世界を放浪していたんです。それで、彼から「アフリカって面白いところだよ」と聞きました。

 そのとき私は、日本は放浪していろんなところを知っていたけれども、日本の外を知らない。世界で何が起こっているか、知らないことを思いました。それで、世界を見てから山に入っても遅くは無い、そう思って青年海外協力隊に応募したわけです。
 海外協力隊って言うのは自分の職種と要請が来ているのと合わないといけないのですが、わたしは先ず何処の国が危ないですかと聞きました。そしたらエチオピアだと。じゃそこへ送ってくださいと。ちょうどそこに野菜栽培の要請がありました。さっき言いましたように、マイナスの方向に決めるそういう決め方をしたわけです。通常の考え方ではこれからの自分の人生が開けない、そう思ったわけです。

 そして、エチオピアに参りました。その当時エチオピアがどうだったかといいますと、ここはずっと皇帝がいまして――長い歴史があって、ソロモン王とシバの女王の子孫と言われている皇帝がいたわけですが――その彼が殺されて、社会主義革命が起こりました。当時は、社会主義政府が非常な粛清をやっていまして、反対派を捕らえたり殺したりしていました。
 たとえば、私が赴任して一週間たってマーケットに買い物に行ってたら、横から男がさっと飛び出してきたんです。そしたら、その後からボンと音がして、その男は倒れて死んでしまった。それを、秘密警察らしい連中がどこかに運んでいく。あるいは、道路際のコーヒーショップでコーヒーを飲んでいると、向こうから機関銃を積んだジープがやってきて、いきなり店の中にダダダッと撃つんです。僕たちはテーブルの下に伏せましたけど、ひとりが撃ち殺され、ひとりはビルに逃げ込んだんですが追い詰められ、飛び降りて自殺するということがありました。
 いつも、5時以降は外出禁止令が出ておりまして、5時以降になると外で銃声がしていて、翌日仕事場に出かけると道端に人が死んでいたり、警察にたくさんの人が捕らえられている、そういう状況でした。
 私が派遣されたのはソマリアの近くの大きな町でしたが、そのうちにソマリアとの戦闘が始まり、攻撃を受けて危ないというので、また、北からはエリトリアという――数年前に独立した国ですが――その国が独立運動をしていて、その中でスウェーデンのボランティアが殺されたりして、アジスアベバの協力隊の寮に集まってきたのですが、そこでも流れ弾が当たってきたり手榴弾が爆発したりと、そういう状況になってきて、それで、政府がもう引き揚げと決め、帰らなければならなくなったのです。

 ですから、そういう状況ではあったけれども僕にとっては非常に不本意な撤退であったわけで、悔しくって、何もできなかったじゃないかという思いがあって帰ってきました。
 そうしてしばらく東京にいましたけど、もう一度アフリカに行きたいと思い、アフリカのどっかの国に派遣してくれと言っていたんですが、西サモアならあるといわれて、あの楽園のようなところと思い(サモアに派遣された人は”そうじゃない”とおっしゃるかもしれませんが)マイナスの方を取って、止めたわけです。

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