2000年11月10日「市橋隆雄さんを囲む会 講演会」(三重県亀山市にて) P4

 それから私は、愛媛県にある福岡正信という先生の自然農園に入って自然農の研究をやりました。昼は農作業をして夜はローソク一本での生活をするわけですけど、そのときに自分の今までの生活を思い返し振り返る時間が与えられたわけです。
 自分は何かできるんじゃないか、転機が得られるんじゃないかってエチオピアに飛び込んだけど何もできなかった。何も成し遂げられなかった。でも、本当にそれだけのことだったんだろうか、と。夜、月の明かるい時などよく山の中をひとりで歩いていたんですが、ある日、胸の中にある、他の思いが浮かんできたんですね。
 つまり、「自分はなにができたか、なにをやってきたかって事ばかり気にして、それで、できなかったって言い合いしている。逆に、それで得たものは無いのか、何を与えられたのか」っていう思いが出てきたんですね。

 エチオピアの状況は、人が殺されて、貧しさがあって、非常に過酷な状況です。その中にいながらですね、エチオピアの人々は、非常によく笑うし、よく歌うし、人にやさしく思いやりがあるし、友情を示してくれたわけです。
 非常に悲惨で不幸な中にありながらも、決して未来というものを失っていない人たち、過酷な状況だからって外国に逃げたりしないで、そこにとどまって、そういう状況を受け入れながら生き抜く人々の力というものに触れたということです。
 そこは、日本のように、いろいろなものを作り出すことで人生の喜びを感じるとか、あるいは、旅行して山に登る、美しい自然を鑑賞してああ生きていていいなあということを体験して人生の意味を思う、そういうことが無い世界です。
 それなのに、そういう状況の中で、受け止めて生き抜いている。そこに何か、人間の尊厳というか――よく僕たちは、お前が言ったことで腹を立てるとか、人のせいにしますけど、そうではない――周りの状況に支配されていない、環境の奴隷になっていない人間の尊厳というものを、あの貧しさの中にいる人たちが持っていて、その力に僕は触れたんだと、気づいたんです。
 で、自然農法をやりながら、何がそうさせているんだろうと考えていたわけです。


 さて、その年の正月、亀山に戻ったところ、アフリカのナイロビにあるスワヒリ語学院という学校で、日本からの学生を募集していると広告を見ました。本当にタイミングよく見たんですが、僕はもう一度アフリカに行けると、そこに応募したわけです。
 ケニヤというのはエチオピアの隣にある国だし、チャンスがあれば戻れるかもしれないと期待もありました。
 そして、4月に日本から男性6人女性6人のグループと一緒に、ケニヤへスワヒリ語の勉強をしに行ったわけです。その中に今の私の妻がいたわけですけど。

 このスワヒリ語の学校というのは星野芳樹という人が作った学校です。星野芳樹というのは満州総督だった星野直樹というひとの弟で、共産党員でありましたので戦中に投獄されたりして、引き揚げ事業にかかわったりしてから静岡新聞のエディタになった人です。彼はジャーナリストで世界各国を巡っていたわけです。
 そしてアフリカで、これからは日本の若い人にもっとアフリカに来てもらってアフリカと日本の架け橋になってもらおう、そして日本の若者がケニヤに来て、スワヒリ語を学んでアフリカの人たちと一緒に生きる、そういうことを思って創った私塾です。

 私がそこでスワヒリ語を6ヶ月間学んだ後、日本テレビが「驚異の世界」という番組の収録に来ました。5000m近い山の中から流れ出て砂漠の中に消えていく河に沿って、流域に住んでいる人々の暮らしと動物たちを紹介するという番組でしたが、その番組の通訳に雇われまして、そういう田舎に住む人たちや遊牧民の人たちの生活に触れたわけです。
 あるときは牛のウンチで家を作って住んでいる人たちの村に泊まったんですが、ライオンが村を襲って牛を殺したとかそういう経験をして、そこの人たちはライオンが臭いを覚えたので全部川向こうに移るとかそういうことを体験したり、テントで寝ていたら夜中にすごい激痛がしたので、見たらさそりが出てきたり、まあいろいろありましたけど生き延びてきました。

 その後、ナイロビに戻って今の妻がスワヒリ語を勉強した後スラムでソーシャルワーカーの仕事をしていました。それをみせてもらいに、スラムに行ったりしていました。
 こちらに写真がありますけど、どういう仕事をしているかというと、仕事が無いしあっても非常に低所得で、女性は仕事がないと売春をして子供が7人いると父親が全部違うとか、こどもたちは授業料が払えないから学校にいけないとか、あちこちにウンコが落ちていて埃臭いとか。
 そのなかに訪ねると、貧しい中にあってもジンジャエールとかコカコーラとかそういうのを買ってもてなしてくれる。やぎの頭を焼いたのを出してきてこれは非常に栄養があるとか言って出してくれる。そういう人たちがいました。それで貧しさの中にあっても自分たちの生活がいつか良くなるという、良いときが来ることを信じて前向きに生きている人たちでした。

 なぜこういった生き方ができるのか、僕の中に疑問として残ったわけです。
 そして結局その答えというのは、エチオピアであった人もケニヤのスラムであった人も、そういう彼らを前向きに押し出している力というのはキリスト教の信仰だと気づいて、その頃から、僕は教会に通いだしたわけです。

 そうして日本に帰国しまして、何かをする当ても無いところに、ケニヤ大使館ができたと聞いたのです。スワヒリ語を少ししゃべりたいなと思って大使のところに会いにいったんです。そしたらちょうど、大使館を開設するためにいろんな業者がきていたんですね。日本語の契約書を持ってきて、「何がかいてあるかわからない、ちょっと訳してくれ」と言われまして、そこで翻訳をしたら大使館で働けということになり、そこで働くことになったんです。

 教会にも通いだして一年後、あのアフリカで出会った信仰が、私にも与えられました。そのときに、私の人生にそれまで無かった、全く新しい揺るがない土台というものが与えられたと思っています。

 ですから、アフリカの人は私にとってなんだったと聞かれれば、その人たちのおかげで私の人生の土台を見出した、そういう人たちだったのです。

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