で、31歳で結婚をしまして、また新しい問いが出てきました。キリスト教徒としてどう生きたらよいか、ということです。そのとき、ひとりの人物に出会いました。
長谷川保というひとで、浜松にあります「聖隷福祉事業団」という大きな事業団を持っている方で、日本の社会福祉法を手がけた人です。
その人が私に、「あなたたちは『何をして生きるか』と求めているけれども、それではわからない。『何をして生きるか』よりも『誰のために生きるか』を考えなさい。誰と一緒に生きようとするのか、それがわかれば、あなたが何をすればよいかがわかる。」と言われたのです。
これで目が開かれた思いがしました。で、私たちは誰のために生きるんだろう、誰と一緒に生きるんだろう、ということを思ったわけです。
私がそれまですごして来たアフリカでの体験。アフリカで出会った、アフリカで生きたというその意味。決して、それは偶然じゃなかったと思いました。
それは意味があったのだとわかりました。自分は、アフリカの人たちに出会ったことで、人生の大切な意味を見つけた。そしてその人たちは今、非常に貧しく助けが必要なのだ。私がこれから一緒に生きる人は、このアフリカの人ではないか。この人たちと一緒に生きよう、という結論に達したわけです。
そこで、自分たちの教会に、アフリカに派遣してくださいと頼みました。しかし、駄目と言われたんです。「あなたたちでは、向こうでいい働きができない」と言われました。
じゃあいったい、アフリカの人と一緒に生きるには何ができるんだろう、と考えました。
彼らに必要な“モノ”だけを与えることが一緒に生きることになるんだろうか、いや違う、と。
そこで生きるのに一番大事なこと、それはやはり魂にかかわることだと思いました。魂にかかわらない限り、本当に一緒に生きることはできないと思いました。
それで、西洋坊主、つまり牧師になる学校に入ったわけです。
4年間勉強しまして、そのあいだに浜松の病院に行って、重度心身障害者や精神病棟やホスピスといった現場で、介護士としての実習を重ねました。それも、牧師としての訓練だったんです。
こうして、1988年9月に、牧師となって家族と共にケニヤに遣わされました。
ですから、初めてケニヤに行ってから、アフリカの人と一緒に生きるようになるまでに、10年かかったのです。
10年間でやった一つ一つが、今ひとつも無駄でなく、役に立っているのです。
ここでスライドを観てもらいまして、それから後半に移りたいと思います。
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これは、スラム街のメインストリートです。遠くに見えているのが、高いビルの立ち並ぶ市街地です。スラムというのは、市街地にすぐ隣接してできてくるわけです。トタン屋根と泥の壁ですね。 |
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これが、比較的きれいなスラムの道です。ここに溝があって、ここにはウンコとかいろんなものが臭っているところで、ここはお店ですけど、いろんなものが売っているところです。
人々は、トタン屋根で泥の壁で、ひと部屋4畳半くらいのところに住んでいます。そこに、まあ10人くらいがごろ寝しているわけです。
で、そこから仕事がある人は行く、しない人は一日中うろうろとしているわけです。
そして、少しでもお金が入れば、バーへ行って昼間からお酒を飲む。
まあそういう生活をしています。 |
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これが、僕たちが3年前から始めた教会です。ここには9カ国ぐらいの人が集まってきます。
この人たちは、ケニヤのひとたちです。このひとはマダガスカルから来ています。
向こうの人は、ゴアというところから。この人は、ウガンダとナイジェリア。
そういう人たちが集まっています。
70人くらいの教会です。ここで僕は説教しているわけですけど、英語とスワヒリ語とふたつの言葉でやっています。
これが教会に来ている高校生年代の人たちです。日本の高校生に比べふけているように見えます。ケニヤの人って成長が早くって、40過ぎになると髪の毛が真っ白になるんです。 |
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これは、この教会と同じ敷地にある幼稚園です。これは、幼稚園の雰囲気を表す看板を協力隊の人たちにかいてもらいました。こっちの看板は僕が作ったんです。
この幼稚園には、現在106名がいます。この子供たちもいろんな国の子供たちがいて、親の国籍では20カ国くらいになります。 |
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これが私の妻です。
1クラス大体14‐5人のクラスです。先生と、それからアシスタントの人たちがいます。これが幼稚園のスタッフで、今はもっといます。26名です。 |
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これが私の家族で、長女と僕のコピーだって言われている長男、それに次男、それから次女、三男です。 |
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