自分史  11〜15歳

 

03自分史 11歳から15歳  1960年〜1964年
<給食と弁当>
小学校では給食はまだ無かった。一時期、味噌汁だけの給食があったのを覚えているが定かでない。
脱脂粉乳の提供もあったが長くは続かなかった。
そんなことで基本は毎日自宅から持参する弁当でおかずの定番は玉子焼きだった。
冬季には弁当の保温箱が用意された。ブリキ製のボックスで下段に火鉢があり4-5段の網があって弁当を並べた。一番下は熱過ぎ2段目が適温だとされ置く場所は班により順番に変えていた。

<海人草なるものがあった>
畑の肥料は下肥つまり糞尿が普通だったから寄生虫を持った子どもは大勢いた。
自分も検便の度、回虫がいた。確か回虫は青い紙、十二指腸虫は黄色を配布された。
それで駆除薬を飲むのだが当時は海人草だった。マクリともいう。
臭くって、お世辞にも美味しくなく子どもによっては鼻をつまんで飲んでいた。
中には持参の雑巾にほとんどこぼす子もいた。
中学になると錠剤に替わったと思う。

<安保闘争と浅沼稲次郎の暗殺 1960年10月(昭和35年) 11歳>
60年安保闘争で国中が騒然とした頃である。連日国会周辺では全学連がデモをし樺美智子さんの死でピークに達した。
しかしそれも岸総理の退陣で収まったころ社会党の浅沼稲次郎氏が山口二矢に刺殺された。

この頃から毎日、新聞を読むのが楽しみだった。本多勝一の探検記や天声人語も毎日読んだ。
今でも文章を作成するのが苦にならないのはこの時期の読書習慣にあると思う。

<苦手だった体育>
苦手だったのは体育と音楽、特に体育は苦手で通知表の体育は1−2−1−2だった。
いつも図書館にこもり、読書に没頭していた。
運動会では決まったようにPTA会長が「健全な精神は健全な肉体に宿ると申しまして…」と一番忌まわしい挨拶をする時代だった。
この頃、亀山小学校にはまだ校歌がなく代わりに三重県児童福祉の歌「虹の橋」が歌われていた。
♪伊勢の海から昇る陽を身体いっぱい浴びながら…当時は知らなかったけど古関裕而の作曲だった。
歌詞には凄惨な戦争がようやく終わった喜びと希望が込められていた。

今はネット検索でも出なくなったのでここに歌詞をあげておこう。
三重県児童福祉の歌 虹の橋
             作詞 岩田雨平
             作曲 古関裕而
1.伊勢の海から昇る陽を 身体いっぱい浴びながら
  日本晴れの青空に 日ごとすくすく伸びてゆく
  双葉の命 たたえよう
2.緑の風がそよ風が 吹いて輝く野に丘に
  羽根を夕日に光らせて トンボすいすい遊んでる
  自由の天地たたえよう
3.遥か鈴鹿の山並みに 燃える希望の雲間から
  良い子になれと微笑んで 父母が呼ぶ呼ぶくにが呼ぶ
  明るい日本たたえよう
4.今新しく夜が明けて 世界を結ぶ虹の橋
  ぼくら私ら手を組んで みんなにこにこ越えてゆく
  輝く未来たたえよう

<名張毒ぶどう酒事件 1961年3月 12歳>
中学に入るころに起こった事件で印象は強い。毎日、新聞を読むことに熱中した。

<中学へ>
とにかく生徒が多く1学年550人余り12クラスあった。単限ごとにカバンをもって教室を移動した。
空いた教室をフル活用する苦肉の策である。

<嫌いになった英語>
中学になると始まった英語だが、やがて落ちこぼれることになった。
一番の理由は近所の子らと近くの英語塾に行っていたが、次第に彼らが大学まで行ける家庭の子息であり貧乏な自分には縁のない世界だと分かったことだった。
もう英語なんか必要ないと割り切り得意な理系の本ばかり読むようになった。
易しい本では満足できず高校やそれ以上の物理や化学の本に熱中した。
これは将来、各種の資格を取るのに大いに役立った。

<謎の美少女 1962年 13歳>
思春期の訪れは遅い方だった。中学2年の時、クラスにY広美さんという女子がいた。他の女子は冬にはズボンになるのにいつもスカートだった。
確か3年生になるかなる前の頃、ふっとみた横顔に、生まれて初めて見る美しさを感じた。
それが不思議なことに彼女は忽然と消え卒業名簿にも載っていない。転校したのだろうか。
同時期、男子生徒の間では「みずのみにいこか」という隠語があった。
水野○○さんという美少女がいたので他の教室に見に行くことだった。

<中学時代はラジオ製作に興味>
当時は無線に興味を持つ仲間は少なかったが、参考になる雑誌をむさぼるように読んだ。
貧乏だから無線機の現物は手に入らないけど知識だけはどんどん膨らんだ。

古いラジオをもらってきて分解したり作り変えたり骨までしゃぶるように楽しんだ。
いつか思う存分、いじれる日を夢見ていた。
アマ無線技士の電話級を取得したのもこの頃である。

<高校は工業の電気科へ 1964年 4月(昭和39年) 15歳>
大学に行ける家計の余裕はなかったので、当初から工業高校を目指し、目標通り津工業高校に入れた。
この当時、鈴鹿に国立の工業高等専門学校(高専)もできたが競争率が尋常でなく試し受験で敗退した。
一般教科は好きにはなれなかったが専門教科はわが意を得たりと、すべてが興味深かった。

<いとこの死>
親父の兄のひとり息子(中学3年生)が急性白血病を発症した。
伯父は戦時中は軍の高官で満州にいて溥儀(清朝の皇帝)とも交流がありけっこういい暮らしをしていたようだ。敗戦で引き上げ後、農協の管理職をしながら家族3人で暮らしていた。暮らしは我が家よりずっと良かったようだ。突然のことで親戚みんな驚いたが輸血がいるというので三重大に行き採血した。
その頃はまだその子は元気だったが急速に症状が悪化し間もなく世を去った。
伯父夫婦の悲しみは計り知れなかったと思う。
自分にも同年輩のあまりに早い死はショックだった。

この年1964年(昭和39年)の秋は東京オリンピックがあった。
運動には興味がなかったがニチボー貝塚のバレーボールは自宅のテレビで見た。
この頃は東京など大都会は急速に近代化が進んでいたが田舎ではそれほどでもなく高度成長期と呼ばれる1967年(昭和42年)以降にマイカーも増え生活様式も大きく変わったと思う。


中学1年くらいか?
近所の人と伊勢志摩へ

中学高校と無線に熱中。

3--11〜15歳 終わり