自分史  26〜30歳

 

06自分史 26〜30歳  1975〜 1979年
<結婚し子育てと波乱の時期  (昭和50年〜54年)>

一億総中流といわれ庶民の生活水準も上がってきた。
3C(カー、クーラ、カラーテレビ)の耐久消費財が普及した時代だった。
この頃からカメラのカラーフィルムが安くなり写真もカラーで撮るのが普通になった。
さくら、フジ、コダック3社が赤、みどり、黄のシンボルカラーで競い合った頃だ。
当時のテレビCMは相手をかなり意識して時には強烈に皮肉っていた。
「どっちが得か、よーく考えてみよう」「みどり負けそう」等々



多くの男性は25-6歳までに結婚するのが多かった。

見合い結婚もまだまだ普通で、25歳の夏に遠い親戚の紹介で幼稚園教員をしていた今の妻と見合いし、なぜか双方とも「異議なし」となった。

若者は車を持って当たり前の時代となりテレビのCMではケンとメリーのスカイラインが一世を風靡した。
婚約したことで、ようやく当時の若者のようにホンダライフ(軽乗用車)であちらこちらドライブした。

26歳の4月に式をあげた。当時はハネムーンは南九州が定番だったが世間と同じは嫌なので北海道にした。
行きは長い永い東北本線を夜行で移動、青函連絡船で函館へ。
札幌、層雲峡や阿寒湖経由して釧路へ。帰路は人生初めて飛行機に乗った。

所帯を持つと精神的にも安定し、イライラすることも無くなりたちまち体重も10kgほど増えた。
共働きだから家計にも余裕ができた。
生まれてくる子どもを撮ろうと8ミリムービーカメラ(チノン製)も買った。
当時ようやく映像と音を一緒に撮れる8ミリカメラが普及し始めた。
カートリッジタイプのフィルムはわずか3分程度しか撮れない高価なものだった。
今でこそ動画は簡単に編集できるが当時はフィルムだから専用の道具でカットし専用のテープで繋いでそれなりの長さの自作映画になった。

この頃、風疹が流行って妊娠中の女性は特に心配した。
27歳の夏に無事に娘が誕生し子育てに、仕事に明け暮れた。
ショッピングセンター亀山エコーもオープンし便利になった。

この頃、父は市役所を定年退職しT病院の救急車(当時は亀山消防には救急車がまだ無かった)の運転や雑用係をしていたが1977年春、消化器系の病気になり仕事一筋に生きた63年をあっけなく終えた。

「もう俺はあかんからおまえに任す」と最期の言葉と共に看取ることができ、悲しみはそれほどでもなかった。
ただあと10年生きれば、好きだった犬を飼ったり、釣りを楽しんだのに残念だった。

この当時、葬儀は地区の総出で祭壇等を準備し葬儀後も毎晩のようにお参りがあるのが普通だった。
しかし時代は大きく変わりつつあるのを感じ地区で初めて葬儀社を入れた。
自分たち夫婦の関係者が多く参列して200名近くになり結果として新しい時代の葬儀を実践できた。
正直なところ地区の皆さんも会社勤めだから助かったと思う。

<当時は法事が多かった>
親戚も増えたし親の兄弟たちはまだ健在だったので法事が年中あって呼んだり呼ばれたりが多かった。
親父の兄弟の共通の話題は釣りだった。
何度か繰り返し釣りの自慢話を聞かされた。
やがて歳月も経ち次々と父の兄弟も亡くなり親戚付き合いも減っていった。
55歳くらいのときの父

悪いことは続くもので翌年(1978年)の春先だった。まっ昼間に寝室から出火し自宅を全焼した。
当時2歳の娘の子守りをしていた母は子どもと無事に逃げ幸いだった。

幸運だったのは、この頃労働組合の役員を始めた関係で労働者共済の火災共済に加入したばかりで満額の700万円の保障が得られた。

多くの人からのお見舞い金や自己資金の300万ほどを合わせて、すぐに家の新築に着手し2階建の新しい住居が夏を待たずに完成した。
実は火災共済は入ったばかりで払った掛金はわずか7000円であった。
まさに世間の多くの人の助けで建てられた新居であった。
この家に住んで既に45年、途中リフォームはしたが終の棲家となるだろう。

火災で焼失した自宅を直ちに建て替えできた。 (1978年)                                建て替えた家

新居の完成のすぐ後に息子が誕生し2人の子持ちとなった。
妻は当時初めて制度化された育児休業を取得し運転免許まで取った。

<亀山でコレラ騒ぎ>
この頃(1978年夏)全国各地で散発的にコレラが発生していた。
亀山でも南野のクリニックで入院していた老人が退院後検体からコレラだったとわかり大騒ぎになった。
老人は海外旅行の経験もなく何処から感染したか分からなかった。
ちょうど息子の出産で妻が入院していたクリニックだったので非常食として缶詰を買い込んだ覚えがある。

6--26〜30歳 終わり