<1949年(昭和24年) 0歳>
覚えていないが生まれた場所は天神の花火工場だったそうだ。
戦後の混乱期、家もなく親父の兄弟の仕事場に間借りしていたそうだ。
当時のこと、持ち家がある人は限られていた。
<覚えている一番古い記憶1952年5月(昭和27年) 3歳>
3歳の頃はぼんやりとした記憶である。父親は若いころハイヤーの運転をしていたことがあり徴兵で軍のトラックの運転手として内地にいた。復員後、町役場の配達人の仕事を得、自転車で各所を回っていたが大型免許を所持していたので消防士に採用された。
持ち家がなく貧しかったオイラのうちは江が室にあった消防署の2階に間借りしていた。
下には赤い消防車が2台置いてあり充電中は危ないから近寄るなと言われていた。
当時の消防署と消防団
ちょうどそのころ本町にあった付属小学校が不審火で火災になりその真っ赤に燃えるさまを2階から眺めたことを覚えている。
南側の窓からは樹木越に空が赤く見え東の窓に移ると燃え上がる炎がはっきりと見えていた。
この当時は家に風呂のある所帯は少なく近くの銭湯に通っていた。
歩いて数分の場所に銭湯があり側溝には灰色の垢が流れていた。
消防署の裏庭に父がドラム缶で風呂を作った。
幼児にはけっこう大きく感じた覚えがある。
<長屋に住む 1953年(昭和28年) 4歳>
父は当時としては珍しく運転免許を持っていたことで、町長の公用車の運転手の職を得た。
この頃、すぐ近くの天野さんの借家の長屋に移り住んだ。
この長屋は昔武家屋敷で、鑓のような棒が鴨居にかけてあった。
天野さんは資産家で大きな屋敷と広い庭や畑があった。
長屋の管理はおばあさんがしていて「子どもがいると家が傷む」と何度か言われて母は肩身が狭い思いをしていた。
水道のない時代、毎日の生活用水は数十メートル離れた共同井戸からバケツで運んだ。
手汲みのポンプが設置してあり、つるべ井戸が主流だった当時としては近代的だった。
便所は汲み取り式で糞尿は畑にまく時代、周囲にはウジ虫(おな虫)が這っていた。
井戸ポンプのイメージです
<かまぼこ板で遊んだ記憶1953年 4歳>
遊び道具はかまぼこ板だった。自分の家のだけでなく近所からも、もらってきて釘でつないで飛行機のような形を作った。
「いくつ?」と聞かれて「よっつ」と答えた記憶がある。
<幼稚園入園 1954年4月(昭和29年) 5歳>
近くに三重大付属幼稚園があったので学費が安いこともあり母は入園させたかったようだ。
4歳からは愛児園(私立の保育園)へ通わす家庭もあったがとても払える金額ではなかった。
入園に先立ち、試験があった。こんな質問だった。「何して遊んでいるの?」「誰と遊んでいるの?」「人形を持ってきてください。」
ベビーブーム世代だから、この当時幼稚園も狭き門だった。結局最後はくじ引きで入園が決まった。
くじに落ちたT病院の院長夫人がお金を寄付するから入れてくれとごねたそうである。
結局お金はどうしたか分からないが同じクラスにその息子はいた。
幼稚園1クラス43人、今では考えられない子ども数
内弁慶で友達と仲良く遊ぶような性格でないから幼稚園では楽しい記憶はない。
独りイジイジと大樹(セコイア)の根本でたたずんでいた記憶がある。
汽車には異常なほど興味を持って正確な絵を描いたり紙工作で部品レベルまで再現した機関車を作っていた。
今の時代だと発達障害の子どもと診断されたかもしれない。
ちょうどこの年、亀山町から亀山市になった。
市制の祝賀パレードで園児も旗を持って行進しバラ寿司の弁当をもらったが箸が使えず持ち帰った。
<大協石油の火災 1954年10月 5歳>
当時四日市のコンビナートは増設増築で飛ぶ鳥を落とす勢いだった。事故も多くこの時の爆発火災は煙が亀山からもよく見えた。
ちょうど何かのイベントで亀山に飛来予定だったヘリコプターが煙で来られないと予定の変更があった。
亀山からも消防隊が応援に行き重油で汚れたホースを軽油で洗っていた。なぜ油で汚れたのを油で落とすのか子ども心に不思議だった。
<潮干狩に津の江戸橋に 1954年前後 5歳>
この頃、何度か近所の人たちと連れ立って汽車で津の江戸橋の河口に潮干狩りに行った。
津駅から20分ほど歩いて、ラジオ局(ラジオ三重)の大きなアンテナを見ると海岸だった。
浅瀬で貝を採った。指で簡単に殻が外れる貝でシシビと呼んでいた。
食糧難だから当然持ち帰ってみそ汁に入れた。
貧しかった頃だから牛肉や豚肉は縁がなかった。ただクジラ肉は時々魚屋の店頭に出ていて食べた記憶がある。鶏は飼っている家もあって卵を産まなくなるとつぶしてごちそうになった。
バナナやパイナップルは高価な果物の代表で全く食べたことはなかった。
大人になってから執念のようにバナナが好物になったのは幼少のころお金持ちの子息だけ食べていた恨みもこもっていると思う。
田んぼのタニシも貴重な食糧だった。味噌煮で食べたようだ。
近くの谷間に池がありカエルを裂いたのを餌にザリガニ釣りをした。
まず数匹を獲ると尻尾をちぎってそれを餌にし更に釣りを続けた。
ザリガニを家に持ち帰って親父が茹でて食べてみたが泥臭かったようだ。
<近所のお葬式>
近所で赤ちゃんが亡くなった。うわさではミルクでお腹を壊したのが原因らしかった。
若山の火葬場まで親に連れられて行った覚えがある。
高い煙突があり小さな棺が窯に入れられた。
<ご近所さんとの連携>
ご近所さんとの連携は今では考えられないほど強かった。
みんなが貧しかったので困ったときはお互い様、一時託児からもらい湯、おすそ分け、等々
プライバシーなんて言葉さえなかった。
戦後10年経っても多くの家庭は戦前より貧しくなりラジオのない家庭も多かった。
ラジオを買っただけで近所の人が集まった時代だった。
この頃、我が家もやっと真空管式のラジオを買った。
<父の自転車で白子の海岸へ釣りに 1954年頃 5歳>
父は堅くまじめな人物で欲もなかった。趣味はささやかな釣りだった。
川ではカガシラ(疑似餌)で釣るハヨ、海ではミミズを餌にセイゴなどだった。
白子の海岸まで自転車に乗せられ釣りについて行った記憶がある。
食糧難の時代、獲れた魚はもちろん食卓にでた。
ハヨは飴炊にしたと思う。
貧しかったから写真はほとんどない中での貴重な1枚。2歳くらい。
母親の横は資産家でもある天野さん。前列は左から姉、近所の青木ひろえさん、天野さんの娘のり子さん
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