自分史  21〜25歳

 

05自分史  21歳〜25歳 1970〜1974年
<人生に疑問を感じて   昭和45年〜49年>

1970年には大阪で万国博覧会が開催され世の中が浮きたったが関心もなく、見に行くこともしなかった。

この時期、自分はこれでいいのか?
親しい友も無く毎日油まみれの修理作業に明け暮れ行き詰まりを感じていた。
なにより職場の教養レベルの低さにもうんざりもしていた。

自分には縁が無かった大学では同じ年頃の仲間が体制に反発し社会を変えようと騒然としていた。
何がきっかけか記憶にないが、英語に反発する気持ちから国際語エスペラントを学び始めた。
猛烈に勉強し語彙も2000近く覚え、会話もできるし日誌も書くようになった。
合宿や全国大会に参加したり、一時期は充実した日々を過ごしたが、25歳頃、吹っ切れたようにその世界を離れた。

仕事では資格試験に熱中し次々と資格を獲得した。
主に技術系が主体で、電気工事士、消防設備士、危険物管理者、公害防止管理者、ボイラー技士などだった。

1972年(昭和47年)グアム島のジャングルに潜んでいた日本軍兵士横井正一さんが28年の潜伏生活の後、帰国し連日メディアに報じられた。父親と同じ世代であり戦争が招いた過酷な現実に驚愕した。

1973年(昭和48年)の秋に第1次オイルショックが発生し世界的な石油不足となり電力も資材もあらゆる物が無くなった。
トイレットペーパー等も無くなりメディアでは「日本ナイナイ列島」なんて表現もされた。
会社では省エネルギー騒ぎで大変だったが家ではもともと質素だったので、さほど困ったことはなかった。

<人海戦術の生産工場>
この頃の生産工場はまだまだ自動化も進んでおらず人海戦術だった。
ラインを止めるな!が絶対条件で汗と油まみれで冷暖房も無い工場で必死で働いていた。
無茶な使い方をするから当然設備の故障も多く仕事が終わって家にいても頻繁に呼び出された。

1974年(昭和49年)7月に亀山付近を集中豪雨が襲い多くの橋や墓地が流された。
幸い犠牲者はなく結果的にはこれにより道路等が整備され地域の近代化になった。
また従来田舎で多かった土葬が無くなることにつながった。

<商店街が様変わり始めた>
高度経済成長の結果として商店街の再開発が始まったのもこの辺りからだった。
歴史ある東海道ではあるが商店街の道幅は昔と変わらずバスが通ると他の車の対向は困難だった。
思い切った改革で拡幅とアーケードの工事が進んだ。

1974年の春以降になるとオイルショックの影響も下火となり経済の動きも戻ってきた。

<ベビーブーム世代の結婚ブーム>

当時の結婚は男性が年上の組み合わせが一般的でベビーブーム世代の女性があぶれると騒がれた。
この頃の女性の結婚適齢期は23歳くらいでクリスマスケーキと同じく24を過ぎると価値が無くなるとも言われた。

私の姉の場合も20歳で見合いして21歳で結婚した。
22歳になると荷が重なると避ける親世代もいた。


桑名の金属試験場で金属材料の研修に通った。

 
          狭かったが繁栄していた頃の商店街

5--21〜25歳 終わり