自分史  51〜55歳

 

11自分史 51歳〜55歳  

<新しい生きがいを求めて   2000年〜2004年>

北米駐在を終え、再び仕事にはありついたが、すべてむなしく以前のような気力はもう出なかった。

日曜には地元の教会に通い、何か大きな力に引きずられるように人生の生きがいを模索していた。
2000年の秋、教会に市橋隆雄さんが訪ねてきた。実は自分はまったく彼を覚えていなかった。

ただ小学校の5−6年生の時、めっぽうソフトボールがうまいやつがいてその名が確か市橋だったような記憶しかなかった。
でも彼は私を良く覚えていた。
彼は牧師になり家族ぐるみでケニヤでスラム住民への教育活動を続けていた。
実子3人に加え現地の孤児2人を養子として迎え家族7人で暮らしていた。
しかし資金に困窮し家族の生活さえ困難になり多くの支援者を募ろうと来日してきた。
彼に自分でできる支援としてまずホームページを作ることを約束し、即日に作成し公開した。

ちょうど彼の講演会を中学時代の同級生たちが開くというので出席し講演のすべてをテープ起ししてホームページに上げた。

同時に亀山中学の同期生会を35年ぶりに開くというので550人分の名簿をエクセルデータにして事務作業を一手に引き受けた。これにより多くの同期生の仲間と知り合いになることができた。
2001年の春、同期生会を盛大に開けたことで市橋さんを支える会の会員も一気に150人にもなった。
この会(市橋隆雄さんを支える会)は外野から「どうせ2-3年で消えるだろう」と揶揄されていたが発足後22年経た今でも60名の会員が支援を続けている。

この活動がきっかけで、ちょうど立ち上げ準備が進んでいた市民と行政の協働事業のスタートになる市民交流会「きらめき亀山21」に誘われ参加することになった。
亀山国際交流の会、宿場のにぎわい復活一座などのスタッフとしてかかわる傍ら毎月発行の市民活動ニュースの作成編集を始めた。
また市民相互のメールによる情報共有として「きらかめML」や「市民ネット」も設立し管理を始めた。

地域活動に会社の仕事よりも意義を見つけ自分の将来をかけることにした。
これも不本意ながら帰国しなければ、また偶然に市橋隆雄さんに会わなければありえない選択だった。
時に運命は人知を超えたものに導かれると今でも思っている。

2004年に突然明らかになった野登山への石灰岩採掘の鉱業権設定の動きは行政(亀山市)としては本音は反対したかったが立場上できず市民運動に頼ることになった。
故郷のシンボル野登山が消えるかもしれない、絶対阻止しようと直ちに専用サイトを立ち上げ山歩きの経験を活かし希塩酸を腰に下げて谷や尾根を歩き回り実際には石灰岩がほとんど存在しないと業者の目的の欺瞞をホームページであばき反対運動を支援した。
メディアにも大きく取り上げられ4万人の反対署名に繋げて業者に計画を断念させることができた。
野登山は守られた 2005年1月

国際交流のイベント 左端が私

新しい生きがいを見つけた市橋隆雄さんとの出会い(2000年11月)自宅にて)

11--51〜55歳 終わり