自分史 56〜60歳 | ||||||||||||||||
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12自分史 56歳〜60歳 | ||||||||||||||||
<退職へ そして新しい仕事へ 2005年〜2009年> 子どもたちも大学を出たので、親の義務は果たした。 39年間務めた会社に未練はなかった。 57歳で退職することを決め、着々と準備を進めた。 次第に仕事の量を減らし、若い世代に任せるようにしていった。 またパソコン整備士の資格を3級そして2級と取得し退職後の仕事にめどをつけた。 57歳の誕生日に早期退職し会社勤めから自由の身となった。 正直、在職中は高所作業や高電圧下での点検など危険な仕事も多かった。 無事に乗り切れた安堵の喜びはひとしおだった。 退職金に手を付けることが無いよう、こずかい稼ぎにパソコン修理を始めた。 自由な時間を利用し、ケニヤの市橋隆雄さんを訪ねて計2回10数名と現地訪問ツアーもした。 市民の皆さんから集めて整備したピアニカをたくさん持参し幼稚園に寄贈した。 ケニヤの場合、荷物として送ると法外な税を取られるので個人の持ち物として車の補修部品(サスペンション)まで持参した。今思うと入国審査でよくばれなかったモノだ。 子どもたちもそれぞれ結婚し遠い場所に新所帯を持ったので我が家は妻と老いた母との3人暮らしとなり静かになった。 以前から好きだった猫も飼い始めた。 猫飼いなら分かるだろうけど、あいつらはちゃんと話し相手をしてくれる。 東町の空き店舗活用で市民活動の拠点「ねこの館」もこの頃誕生した。 当初は女性たちの有志が自分で作った小物を売ったりしていたが、とても家賃を払える売上はなく撤退していき私だけが残った。 なぜ「ねこの館」にしたかは私が猫好きで、権力に媚びず、時流に流されず猫のように自由な活動の場にしたかったからである。 ちょうど亀山ではシャープの進出で外国人特にフィリッピンの女性たちが増えていた。 いつか彼女たちのたまり場となりパソコンで本国の家族・友人たちとやり取りするようになった。 中古のパソコンをかき集め整備し10台近くのパソコンを彼女らが自由に使えるようにした。 もちろん無料で使ってもらい彼女らも、ときにはフィリッピンのデザートも振る舞ってくれた。 南国気質だろうか、陽気な人が多くやり取りも面白かった。 やがて中国からの研修生も増え多い時は18人もの若者であふれることもあった。 年末年始は会社が休みで彼女らの行き場所も無くなるので元旦でもねこの館を開けた。 その後、フィリッピンの皆さんは寮にネット環境ができたので、競うように地元の量販店でノートパソコンを買い、修理以外は、ねこの館に来なくなった。 中国からの娘さんたちは、その後もねこの館を埋め尽くしていたがリーマンショックで一気に不況となり本国に帰った。豪勢なお別れ会にも招かれた。 ねこの館は静かになり、ひとつの時代が終わった。 ケニヤの幼稚園訪問 若者であふれたねこの館 リーマンショックで仕事が無くなりみんな本国へ帰った。お別れパーティ |
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12--56〜60歳 終わり |
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