<北米への駐在に 1995〜1999年>
1995年1月は阪神淡路大震災が起こった。
同じ時期オーム真理教のサリン事件もあり世の中は騒然としていた。
仕事は管理職として充実し、職場ではやりたい放題だった。
設備の改善も次々実践し、脂の乗り切った時期だった。
技術者の世界ではこの頃から青色発光ダイオード(青色LED)が実用化し始めた。
20年以上前から赤色のLEDはあったが青色は20世紀内には無理だと言われていた。
既に赤、緑、黄色のLEDは多量に使われていたが青がないと光の3原色にならずディスプレイや照明には使えなかった。この頃初めて市販された青色LEDに感動を覚えた。
間もなく白色のLEDもでき、照明に使われるようになった。
消費電力は1桁少なく寿命は数十倍と照明器具の革命だった。
パソコンはまだ一部の愛好家だけの時代であったがゲームからワープロにまで使えるようになり電話にモデムをつないでパソコン通信ができるまで進んできた。企業ではオフコン(オフィスコンピュータ)で表計算ソフトが使われだした。
パソコン遊びの程度だった言語BASICも技術屋の間では重宝で簡易なデータベースや設備の運転モニターなどに使えるまでになった。今でいうアプリすなわちプログラムを作るのが楽しい時代だった。
経済情勢はバブル崩壊で、生産拠点は海外へとシフトしていった。
短期の海外出張の繰り返しの後、5年のビザを取得し海外駐在で北米オハイオに赴任した。
ちょうど子どもたちは高校在学中で単身赴任だった。
食べ物に好き嫌いが無くなんでも食べれるので不自由はなかった。
毎日パン食でも不満はなかった。チーズだってベーコンだって安くって美味しかった。
会社の仕事は時間通りで自由な時間は存分にあった。
仕事は日本製の設備のメンテナンスや日本メーカとのやり取りだったがフレンドリーな現地の仲間たちとのやり取りは楽しかった。
こんなチャンスにアメリカ社会を徹底的に知ろうと、どんどん飛び込んで行った。
英会話など経験もなかったが、電子辞書をポケットに、発音が理解してもらえないときは
単語を画面に出して話を続けた。
ものの1箇月もたつと土地勘もでき車の運転も慣れてどこでも行けるようになった。
現地の量販店でアメリカ仕様のデスクトップパソコンを買い日本語化して当時黎明期だったインターネットを始めた。Windows95の時代である。接続回線は加入電話を使う方式で今では考えられないほど遅く10MBの転送に1時間かかった。それでも日本ではまだ夢だった固定料金制つまり電話料金は時間制限がなかったので使い放題だった。
もともと単独行の山歩きで慣れていたので独りでも寂しくはなかった。
高い山がないのは不満だったが車で行ける範囲の州立公園はほとんど歩きつくした。
偶然知り合ったアメリカ人家族と親しくなり日曜は教会にお付き合いもして、まるでホームステイをしているような日々を過ごした。
100%英語漬けの生活の中で言葉にも習慣にも慣れ、これならずっとアメリカにいてもいいなと思ってきた頃だった。
日本にいた妻は実父の介護や姑との軋轢で身体の不調を起こしていた。
アメリカに呼び寄せた直後、メンタルに深刻なトラブルを起こし会社にも多大の迷惑をかけた。
一刻も早い治療が必要と着の身着のままで緊急帰国し北米の駐在は突然に幕となった。
あまりに辛い体験だったが、アメリカの友人家族たちや教会の仲間からは言葉に言いつくせないほどの助けと励ましを受けた。
帰国後、妻の体調は徐々に回復した。
仕事は失ったが、これが誰のために生かされているのか気づく人生観のターニングポイントとなった。
赴任当初のアパートで
零下20度の中でのハイク
お世話になった家族たちと
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