自分史  6〜10歳
 
02自分史 6〜10歳 (1955〜1959年)
<貧富の差が際立った頃 1955年前後 6歳>
ベビーブームの結果として周囲に子どもはたくさんいた。父は復員後の中途採用とはいえ
市職員というまっとうな仕事をしていたし姉との2人兄弟だったから貧しいながらも最低限の生活はできた。
母は和裁ができたので呉服店から内職程度に仕事をもらったりしていた。

ただ、家がなく借家住まいが辛かった。近所には裕福な家庭の子息が何人かいた。
昔からの資産家だったり親の勤務先が国鉄とか電電公社とかが目立った。
そんな家に遊びに行くと電蓄やカメラがあって自分には別世界に思えた。

それでも下を見ればもっと貧しい家庭も多かった。
父親が酒乱の家庭なんかは今にも壊れそうなあばら家で身なりもひどかった。

<小学校入学 1955年4月(昭和30年) 6歳>
歩いて10分ほどの亀山小学校に入学した。先生は女性で2学年までお世話になったが、いい思い出はない。
夏休みの絵日記が苦痛だった覚えがある。
ベビーブーム世代だから1クラス50人を超え教室が足りないから音楽室や理科室も使っていた。


小学校入学に際し近所の人が撮ってくれた貴重な写真。
服も手作りだった

体格も小さかったから、いじめられっこで、ただひたすら耐えることが身についた。
一方で、したたかさも覚えその性分は一生のものとなった。

同じクラスに矢〇○○というどうしようもないワルがいて、耳がちぎれるほど引っ張られいじめられた。
こいつが自分でふざけて壊した金魚鉢をオイラがこわしたと吹聴し自分が壊したことになってしまった。
「自分で壊して掃除しないの?」とみんなに言われた。最後には先生には真相を分かってもらえたが恨みは消えない。

<料亭政治の時代>
市長の専属運転手をしていた父は超過勤務(残業)で帰りが遅いことが多かった。
いわゆる料亭前での待機である。
イベントで折り詰めが出ることもあり家に持ち帰って家族で分けたこともよくあった。

<関西線加太での列車転覆 1956年9月 7歳>
近所に住んでいた青木さんが乗り合わせていて事故に巻き込まれた。8名が濁流にのまれて死亡し近所の人たちが総出で捜索に協力した。
青木さんの遺体は最後まで見つからず半年先に偶然河口近くで砂の中から見つかった。
この年は10月にも参宮線六軒駅で40人が亡くなる大事故があった。

<井戸端会議や近所付き合い>
主婦にとっては井戸端会議が日常で実に密な近所付き合いの時代だった。
男性は機会あれば何処かの家で集まって兵隊の体験談を語っていた。
子どもながら覚えているのは敵の攻撃で車の下は駄目で竹藪が良かったとか等々

<消防署に無線設備が入った 1956年頃>
この頃近所の消防署に無線設備が設置された。真空管式の大きな機器で消防車にも移動式の無線機が設置された。
この当時の電波の割り当ては短波帯(2MHz)で本部には高い木柱が2本立ち電線が渡された。
消防署の窓から覗くと職員が雑音交じりのなかで大きな声で交信するのが興味深かった。

<市営住宅に引っ越し 1957年4月(昭和32年) 8歳>
市営住宅の申し込みは毎年、繰り返していたがなかなか当選しなかった。
3回目でようやく番が回ってきて亀田町に新築された市営住宅に入れた。
6畳と4畳半と2畳の板間だったが当時としては豪勢だった。
何より簡易水道が引かれていて井戸から水を運ぶ労働から解放された。

ただ風呂は付属していなかったし銭湯までは遠くなったので我が家でも木製の桶状の風呂を早々と設置した。
その住宅では23歳まで過ごすことになった。

市営住宅にはベビーブームの子どもがあふれていた。

高台の田舎で周囲には芋畑と桑畑が広がっていた。裏山は赤松が多く秋には松茸が採れた。
「ご」と言われた松葉の落葉をさらいでかき集め自宅の燃料にした。
遊び場は裏山や近くの野原で冬には凍った田んぼでスケート遊びをした。
近くの広場は戦前から無線電信局があり鉄塔の基礎が残りバッテリーの残骸が転がっていた。
その横が電電公社の官舎になっており当時としては裕福な世帯が住んでいた。

<みちくさ三昧の通学 1958年頃 9歳>
学校まで3−40分だったが朝も帰りもみちくさ三昧の毎日だった。
現在と違って通学路も指定されていなかったから歩けるところならどこでも入り込んだ。
途中の小川で魚を追いかけた思い出もある。

<市役所が新築 1958年頃>
小学校の南側の運動場の場所に市役所が新設された。
当時としては珍しい鉄筋コンクリート造りだった。
建設中の様子を写生で描いた絵が珍しく入選したことがあった。

<皇太子の結婚 1959年4月(昭和34年) 10歳>
日本中が湧き立った。
白黒テレビが珍しい時で、唯一共働きの夫婦の家にだけあったので近所の人が集まってパレードを見た。

今では想像しにくいが当時は家計は夫が支え妻は子育ての専業が普通だった。
女性は結婚で寿退職が普通で既婚女性の働く場所などほとんどなかった。

<農薬の使用>
このころから田畑の農薬が盛んに使用されるようになった。
パラチオンやホリドールといった強力な農薬でおびただしいドジョウが田んぼで死んでいるのを見たこともあった。農薬散布後の田んぼには赤い旗が掲げられ子どもは近づくなと言われた。

<伊勢湾台風 1959年9月26日(昭和34年) 10歳>
土曜日の朝、先生が日本の半分を覆うような大きな台風が来るから早く家に帰れと言われた。
夜になると次第に風が出てきて家が揺れた。姉が泣き出し母が「今一番ひどい時だから」となだめていた。
突然空が明るくなり夜間なのに青空が見えた。高圧線がショートしたと後から聞いた。

日曜からは電気も止まってラジオも聴けず新聞も来ないし、情報は全くなかった。近くの山の大きな松の木が根こそぎ倒れ今まで見たことがない光景だった。月曜に学校に行くと家の被害を聞かれた。一人だけ倒壊したそうだった。

1週間後には電気も復旧し、ラジオも聴けるようになり新聞も届きだしたので名古屋の甚大な被害を知ることになった。

10月の運動会では、賞品を返上し被災地の学校に送った。ところがその晩、先生たちが打ち上げでどんちゃん騒ぎをし向かい側の市役所の記者室まで聞こえて新聞沙汰になった。「子どもたちは被災地に賞品を送ったのに先生は飲み会をしていいのかと」

<色濃く残っていた戦争の傷跡>
もはや戦後ではないと言われたのは1955年(昭和30年)
それでも地方では庶民の暮らしの中に傷跡は深く残っていた。
徴兵で永く故郷を離れ復員しても仕事も、家も、耕す田畑も無い男たちがたくさんいた。
中でも最たる悲劇は戦地で精神を病んだ人たちであった。
戦争さえなければ平穏に暮らせて人生を送ったであろう男たちの中には軍隊での非情な命令や恐怖体験等で発狂したものも少なくは無かった。
近所には家に閉じこもり時々奇声を上げる男がいて、子どもたちはその家の近くでは声を出すなと言われていた。母の兄も2度の徴兵から戻ったときは重度の精神傷害となっており国立病院に収容され一生そこから出てくることは無かった。

2--6〜10歳 終わり