半世紀前は子どもたちの通学に利用された七曲り坂の入り口
もう誰も利用しなくなった。
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江が室の西北、中屋敷の北端から崖を降り羽若に抜ける細道があった。急坂を登るためジグザグになっていて七曲がりと呼んでいた。
この道は亀田から小学校に通うのに実に都合がよかった。坂をあがればすぐそこは小学校だし下校時は途中には小川もあって道草に絶好だった。それに比べ普通に使われていた県道(八幡坂)は延々と迂回し遠まわりだった。当時は今のように決められた登下校のコースも無く自由だったと記憶している。
その坂道のところどころは青い岩が露出していて水が流れよく滑った。うっそうとした暗い道だったがみんなで行けば平気だった。
椋川には細い木橋があって欄干から川原まで飛び降りれる高さだった。そこを飛び降りることで着地と同時に膝をすくめるコツも身体で覚えた。川には石の下に八目ウナギがいて簡単に手でつかめた。
冬の朝には羽若の田んぼは氷が張り上を歩けた。氷が割れ靴を泥だらけにして学校に着いたこともあった。
何十年か経ち息子が小学4年生になった頃、一緒に七曲がりを歩いてみた。すでに利用する人もなく荒れてはいたが当時そのままだった。
味をしめた息子たち男子グループは、密かに七曲がりを通学に使うようになった。やがて誰かが先生に告げ口したらしく地区担当の女の先生に息子たちのグループは呼び出されお説教を喰らったそうである。ところが近くの林で基地遊びをしたりして鍛えられた息子たちも負けてはいない。
「どうしていけないのだ」「通学路の八幡坂は大きな車が通る。毒蛇よりも、もっと危険じゃないか」と女先生にかみついて困らせたそうな。
その息子も成人し家を離れた。帰省したとき散歩がてらに七曲がりに行ってみた。そこはすでにコンクリートで固められ、うっそうとした細道というより明るく開けた斜面となり、もはや昔の姿は消えうせていた。
それでも護岸工事で一時は草木も消えた椋川は歳月を経てヨシが茂り淵もできて再び八目ウナギや川魚が戻るのも近そうだ。K.I |
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