亀の細道
ウォーキングまっぷ
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<今は亡き男たちの挽歌> 関町萩原の奥には萩原炭鉱があった。 炭鉱といっても石炭でなく亜炭と呼ばれた低品位な鉱物でとても蒸気機関車には使えなかったそうだ。 それでもエネルギー資源がとくに欠乏した昭和20年代には全国各地で採掘されていた。 1年以上前の秋、石山観音の裏へ独りで探索に出かけた。 誰も入ったことがなさそうな沢を詰めると道なき道が続き台地に出た。 杉林の中、倒木に足を取られながら進むとコンクリートの基礎や構築物が現れた。 100m四方はあると思われる広大な範囲に何に使ったのかわからない痕跡が広がっていた。 郷土の歴史探訪にぜひ訪ねたい場所だが壊れかけた丸木橋など多くの人を案内するのは足場が悪すぎた。 なんとか皆さんを案内できる方法を探してスタッフと現地調査をし迂回ルートを見つけ計画を具体化した。 いつ?どのような採炭が行われていたのか詳しい資料はなかった。 亀山市史にも記載されていない。そんな中、意外と身近な知り合い坂倉氏が10年ほど前に調査した資料が見つかった。 皆さんに紹介するには必要充分な資料で大いに役立った。 2017年3月5日新聞に報じられたこともあって100名を超える皆さんが現地探訪のウォーキングに集まった。 昭和20年代終わりに萩原炭鉱が閉山されてからこんな大勢の団体が現地入りするのは初めてだろう。 関係者から聞き取りし資料にまとめられた坂倉氏も現地解説を快く引き受けてくれた。 当時の現場写真はなかったが昭和23年に米軍が写した航空写真が国土地理院に保存され公開されていた。 拡大すると亜炭の運搬に使われたトラック道路や飯場まで確認でき近くの風呂屋から排出されている煙が亜炭を燃料にしているらしく巨大な黒煙となってたなびく様子まで写っていた。 当時は杉林もなく山中に田畑も見られ今とは違って広く明るく開けた森だった。 無事に現地入りした100名余りの皆さんは現地を散策し解説を聞きながら初めて見る郷土の秘められた歴史を満喫できたことだろう。 参加したそれぞれがこの遺構の数々からどのような想いを持ったかはわからない。 なにはともあれ70年前までこの場所では100名以上の男たちが日夜激しい労働に明け暮れていたことは間違いない。 戦争に敗れ生きながらえて外地から戻ったが故郷には耕す田畑もなく仕事を求めてやってきた男たちだっただろう。 坑道の中は暗くじめじめして人がやっとくぐれる大きさの中、亜炭を掘り運び出すのは現在では想像できないほど大変な労働だったに違いない。 病に倒れこの地で命を落とした男たちもいただろう。 炭鉱が閉山して数10年、道は崩れ坑口は埋もれ男たちが寝食を共にした飯場はコンクリートの基礎を残すだけとなった。 戦乱の時代に生まれた故、苦難の人生を送った今は亡き無数の男たち、この秘められた森深くに眠り続ける遺構こそ彼らへの挽歌ではないだろうか。 |
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2017年3月5日の現地訪問の動画です。 | |
炭鉱橋、風呂屋橋など往時を物語る名称が現存している。冊子版のコースは |
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この橋は崩壊しているので手前で左に登り迂回する。 |
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第1坑口の入り口付近、コンプレッサ(空気圧縮機)があった場所 |
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飯場跡か? |
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水槽のようだが? |
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何らかの機器が置いてあったか? |
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何が分からない遺構 | |
坂倉広美氏の調査による聞き取り資料 配置図等 | |
1948年(昭和23年)5月米軍が撮影した萩原炭鉱の航空写真 飯場や水田が確認できる。 | |