亀の細道
ウォーキングまっぷ

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01 静寂のバンドウ越え  02 桜の名所を訪ねて 03 坂本棚田と石水渓白糸の滝 04 市境を越えて石山観音へ 05 加太の里を歩こう 
06 春を訪ねて梅林コース 07 黄色のじゅうたんミツマタの森 08 安楽古道と坂本棚田 09 茶園とコスモス祭り 10 隠れ古道 金王道を訪ねて
11 川のほとりの梅林コース 12 ササユリの里をたずねて 13 コスモスと古刹を訪ねて 14 秘められた細道 金王道東部 15 せせらぎの小川と水辺公園 
16 穴虫の郷へアジサイを訪ねて 17 みちくさと歴史を訪ねて 18 往時を忍ぶ加太越 19 下庄観音と隠れ小道  20 能褒野神社と古戦場 
21 SPECIAL 明治の偉業を訪ねて 22 平家伝説の加太郷 23 懐かしい木造校舎を訪ねて 24 旧伊勢別街道を往く 25 能褒野 歴史ロマンの旅
26 野登の古刹と小川集落 27 羽黒権現と裏羽黒へ 28 埋もれ小道を訪ねて 29 下庄の里山歩き 30 和歌と旅人の道
31 近くて遠い小道 32 隠れ坂巡り 33 忍山大橋と旧機関区 34 穴虫の郷とハスの花 35 鈴鹿との市境を往く
36 関の古城跡と観音山 37 ササユリの里と消えゆく小道 38 一身田へ迷いの細道 39 安楽古道と天空の森 40 加太の鉄道遺産と小山新田
41 鹿伏兎城跡と板屋行者さん 42 SPECIAL今は亡き男たちの挽歌 43 余野公園と油日神社 44 迷いづくしの里山コース 45 埋もれゆく事故事件の跡を訪ねて
46 大和街道更なる西へ 47 変わりゆく白川地区を訪ねて 48 筆捨山の尾根を往く 49 サンシャインパークを抜けて 50 伊勢別街道と旧明(あきら)村役場
51 石水渓白雲の滝へ 52 杖衝坂と菅原神社 53 江戸時代の一揆跡を巡る 注意事項 ご挨拶
53 江戸時代の一揆跡を巡る
このコースの案内・解説は前三重県史史料調査員 草川貴紀様にお世話いただきました。

亀山市辺法寺町の集会所横に置かれた明和の一揆の首謀者として刑場の露と消えた喜八の碑

20年ほど以前に愛知県にお住いの愛知厚顔様が寄せられた明和一揆の詳細解説をここに全文記載します。

明和三年(1766)幕府の命令で亀山藩は甲斐国の河川浚渫工事を行った。
このため藩は莫大な出費となり、藩の財政は危機的状況に陥っていた。
領内の農地検地の実施がきまり農民百姓は大恐慌を起した。
世にいう亀山農民一揆がとうとう起こったのである。
                       愛知厚顔 2003/11/28 投稿

【一揆の発端】
明和三年(1766)。
 幕府の命令で亀山藩は甲斐国の河川浚渫工事を行った。
このため藩は莫大な出費となり、藩の財政は延享元年の移封、寛延八年と明和元年の朝鮮通信史送迎、そしてこの甲斐国での普請などで危機的状況に陥っていた。
 そこで守山御用金、甲州御用金、桑御用金、茶年貢などの名義で、臨時に租税を徴収するようになった。農民はこれできびしい重税負担となり、怨呪の声をあげてたびたび嘆願書を提出した。
しかし庄屋や大庄屋たちは、亀山藩の財政危機をよく承知していた。

  「増税は苦痛だが、これは止むをえないだろう」
と認め、農民の不満の声は藩上層部には届かないようだった。
いや届いていても、もうどうしようもない実情だった。
 すでに藩でも命令を絶対とする古いやり方は崩れ、社会に適合させる必要に迫られていたので、すこし商人や豪農の意見に耳を傾けるまでにはなっていた。
 そのころ亀山西町に鯨屋源兵衛という商人がいた。豪胆だが自分の才覚におぼれる欠点もあった。しかし機知に富んでいた。
 彼は豪農の羽若村(亀山市)の服部太郎右衛門、八野村(鈴鹿市)の伊東才兵衛と三人の名で明和四年(1767)秋に建白書を提出した。

その内容は
  「文録三年検地のとき荒地として年貢御免の処分を
   受けた田畑のうち、いま良田となったのが非常に
   増えている。これを新田に組入れると亀山藩は
   一万石の増収が見込まれ、藩の収入増加は間違い
   ないでしょう」

 豊臣秀吉が行った文録年間の検地から百七十四年を経過し、いま当時の荒地は土地改良されて美田になっている。亀山藩の法定石高は一反平均一石三斗一升であり、地租は七斗八升六合を納付する。
 豊臣時代に上田が一石、中田が八斗、下田七斗の地租を納付していたのに比べても、この税の負担は重くはないのだが、守山御用金、甲州御用金、桑年貢、茶年貢など。数え切れないほどの課税があり、結局は重税になってしまう。まして荒地の認定なら課税はゼロだったのが、もし下田に格付けになれば七斗の地租を納付することになる。

 しかし藩は背に腹は変えられない。建白書をみて奉行の杉田藤左衛門、代官猪野三郎左衛門たちが家老の近藤綾部に具申した。
当時の藩財政はまったく切迫していたので、これをみた重役はただちに実行するよう、つぎの指示を発した。
 一、領内の農民は米穀を他領に売却することを禁止
 一、領内の農民は公設米問屋以外に米穀の販売すべからず
 一、領内の農民は公設問屋の指示する場所まで米穀を
   運搬すること
 一、公設問屋は安くて粗悪な伊賀米を購入販売し、
   領内産の米は四日市または白子より輸出すべし
 一、藩士の扶持米は伊賀米とする
 一、公設米問屋の利益はすべれ上納すべし
 これでは内緒で余剰米を売ることも、運搬することもできない。
まったく過酷な農民いじめそのものであった。

 明和五年(1768)春のある日。
 亀山藩代官の奥村武左衛門宅につぎの男たちが集められた。
いずれもそれぞれの村の農民を代表する者である。その中で 大庄屋 野村の伊藤兵衛門と兵助。下大久保村(鈴鹿市)の大久保彦三郎と彦十郎。 関駅(関町)の市川善左衛門と春吉。
国府村(鈴鹿市)の打田正蔵と庄左衛門。
野尻村の打田権四郎。若松村(鈴鹿市)の加藤孫兵衛。

大庄屋とは下に複数の庄屋があり、それらを統括しながら藩組織の一端を担い、司法と行政の二権を司る重要な立場である。
ほかに目付庄屋、帯刀庄屋などが出席した。
 藩の方からは郡代の大久保六太夫、奉行の杉田藤左衛門、代官の西村直八らが出席した。全部で三十数人が集まった会議である。
会合の目的はもちろん地租、年貢の改定であった。代官の奥村は
  『このところ、御領内の農民から地租、年貢の
   査定が平等でないとの訴えが増えている。これを
   放置しておくことはできない。なにか思案はない
   だろうか』
と湾曲に話を切り出した。大庄屋たちはお互いに顔を見合わせる。
  「いちばんふれてほしくない、いやな案件だな」
顔からありあり読み取れる。それはこのところ農民の間に、増税増税の追い討ちで、不平不満がくすぶっていることを、承知していたからである。
 
奥村の発言に一人が質問した。
  『私の村の農民は皆、お役人様の査定に不満を申
   す者はおりません。両隣の村でも同じです。
   何かのお間違いでは…』
この発言がきっかけで、すぐに別の大庄屋がしゃべりはじめた。
  『いやそれはどうでしょう。私の村では荒地を良田に
   改良しても、農民が黙っておれば地租は以前の荒地
   のまま査定されて安い。これでは正直者が馬鹿を見る
   と不満を漏らす者がいます。』
  『そうです、農民が荒地を必死に努力して開墾し、
   良い田畑に変えたのですから、しばらくは荒地の
   ままで、地租も安く認めてほしいです。』
ようやく本音の発言が出たとき、座はシーンと静まった。
大庄屋たちは、
  「これ以上、増税をしたら一揆がおこりますよ」
と農民たちの実情を訴え、反対するべきだったが、このあと誰も租税値上げ反対の意見を述べなかった。大庄屋たちは藩の財政事情をよく知る立場であり、幕藩体制を支える組織の一員である以上、それが言えなかった。農民側に立って発言する庄屋はいなかった。
そのため会議の行方が一揆の発生を左右することに、誰も気がついていなかった。
 このとき郡代、大久保六太夫がぴしゃりと
  『皆の言うことはもっともである。農民たちが汗水
   流して働いた努力の結果は尊重しなければならぬ。
   しかし掟は掟、法は法であり、何人でもこれを守
   らねばならぬ。むかしは荒地であっても、いまの
   姿が良田ならば、現在の実態で査定し課税するのが、
   法を守ることになるのではないか。』

これで一座はまったくシーンと静まってしまい、このあと大庄屋たちはまったく発言しなくなった。代官の奥村武左衛門は
  『どうだろう。文録三年いらい長いあいだ検地の実査
   もしていない、この秋に田畑検分をやってみて、その
   結果によって地租を査定すれば、不公平は無くなると
   思うが…。』
  『実際に検地した結果なら、誰も不満は出ないでしょう』
出席した庄屋全員が押し黙って認め、領内の農地検地の実施がきまったのである。

 この代官奥村宅での決議は秘密だったが、またたく間に領内各地に伝わった。農民百姓は大恐慌を起した。そしてひそかに各村の山林、あるいは原野に集合し
  『これ以上増税になっては生きていけない。
   いかにしてこの検地を阻止できるか』
と相談を始めた。もう検地を絶対反対という方向になっていた。
そのとき農民の中で最も人望があり、また勢力もあった伊船村(鈴鹿市)の豪農、真弓長右衛門が檄文を作成した。その内容は

  「来る九月十三日、広瀬野に八十三ケ村の十五才から
   六十才までの男子は集まれ。一ケ村に五人、三人は
   鉈、鎌、鋸、槌、など持参のこと。また竹竿に紙旗
   をつけ村の印を画いて御持参すべし、
   また食器と三日分の食料も用意すること。村方役人
   の指示は無視すること。
            御領分 八十三ケ村連名
                広瀬野源太夫    」
 広瀬野源太夫とは、広瀬野に住む伝説上の妖怪狐の名前である。
これはもう完全な決起の呼びかけである。これを亀山藩領内八十三ケ村の隅々まで配布し、農民を煽動したのである。当時の広瀬野(鈴鹿市)はまだ開拓されない原野であり、牛馬の餌となる草を刈り取ったり、屋根葺き用の茅をとる野原。萩や桔梗、オミナエシの花が咲き乱れる原であった。  

 藩ではそのころ検地を始めていた。
まず阿野田村、岩森村、徳原村などの調査が終了した。九月に入り他の村落四ケ村の下検査に着手した。このころすでに
  「広瀬野へ集合せよ」
との激文が村村に飛んでいたのだが、検地の役人たちはこれをまったく知らなかった。検地に従事したのは郡代の大久保六太夫、奉行の杉田藤左衛門、代官の奥村武左衛門、猪野三郎左衛門、西村直八らである。
 彼らは結果として農民の怨みを一手に買うことになる。彼らは職務上止むをえず行っていることなのだが、農民たちは
  『これ以上の増税は絶対に許せない』
怒り狂って興奮する始末。この民心にはもはや理非曲直を判別する力は失われていた。
 この怨みは五名の役人と六名の大庄屋に向けられてしまう。
これよりすこし前、宝暦四年(1754)美濃郡上で起こった農民一揆で、幕府の下した判決が農民の間で、いわゆる義民として崇拝する思想を生み出し、大きく影響したことは否定できない。

 明和五年〔1768〕九月十一日。
 真弓の檄文に触発された亀山野村の農民たちは動揺した。
  『真弓長右衛門の煽動に乗って行動したら、南と北
   の野村に住んでいる武士に殺されるだろう。また
   真弓に味方しなかったら彼ら一揆の連中に村内は焼き
   討ちされる。どうすればよいか…』
そして喧喧がくがく議論の末
  『一部は一揆に参加し、残りは無関係を装い態度を
   はっきりさせない、これでいこう』
とした。
  『だが一部分でも一揆に参加したら、首魁と目される
   者は死刑に処せられる。しかし死を覚悟で参加する
   者を決める必要がある』

皆は悲痛な気持ちで
  『この役目は宅蔵さん、あんたしかいない、頼むわ』
と無理に説得して宅蔵を指導者に選んだ。そして
  『もし宅蔵さんが死刑になったときは、村全体で金穀
   および田畑を宅蔵さんに与え、家を安全に守ってやる』
と約束した。それを聞いて宅蔵は
  『この村の安全を考え犠牲になって殺される…、
   言うは易しいが犠牲になる私の心の中を考えてくれ。
   非常に苦しいんだ。私に代わって頭になってやろうと
   いう者は幾人いる?。死にのぞんで田圃を貰っても
   用途がないものを、どうして喜べる?それよりも
   もし死刑になったら、私を神として村費でもって神社
   を建て、末長く拝んでほしい。それならば私は死刑も
   甘んじて受けよう。』
野村の二百戸の農民はこれを聞いて確約し、さらに検討したうえつぎの申し合わせを決めた。

 一、若者で一隊を編成し宅蔵を頭として広瀬野に出発する
 一、指揮は宅蔵のほかは誰も関係してはならない
 一、先方の一揆の頭から「人員が少ない」と咎められたときは、
   後続部隊がが途中で拘束されたので、我らだけ脱出して
   参加したと言うこと
 一、亀山城から討伐の出兵があったときはすぐ逃げること
 一、野村在住藩士から「何処に行ったのだ」と詰問されたときは、
   宅蔵が村の若者を煽動して出かけた。我らは少しも知らな
   かったと言うこと、その証拠に一家の主人は宅蔵のほか一人
   も参加してないと言う。
これを見ても、一揆の中には、いやいや参加している村もあったのが判る。

 この当時、南野村には八十六戸、北野村に廿七戸の藩士の家があった。このほか大庄屋が一戸と、目付庄屋一戸が野村に居住している。
 野村の大庄屋は伊藤兵左衛門。彼は九月十二日朝に宅蔵が青年たちを組織して出発する計画を知った。そこで関宿の大庄屋、市川善左衛門と一緒に従僕を連れ、偵察のため広瀬野にでかけようとしていると、そこへ西富田村(鈴鹿市)の庄屋孫兵衛の長男が飛んできて
  『大変だ!一揆だ!広瀬野へいっぱい集まっている。』
と急を告げた。

 世にいう亀山農民一揆がとうとう起こったのである。

【一揆 一日目】
 明和五年〔1768〕九月十三日。
 宅蔵に引率されて、前夜ひそかに出発した野村の一隊は広瀬野にむかっていたが、この日の早朝に到着した。そして宅蔵は首魁の真弓長右衛門に事情を説明した。
  『私の村は廻りを藩の武士に囲まれ、留守宅が心配です。
   もし一揆が亀山城下近傍に入ったとき、私たちの独自
   行動を認めてください』
真弓は
  『野村の留守宅は人質にとられているようなもの、
   止むをえないだろう』
と申し出を認めた。

 九月十三日を期して広瀬野に集合した一揆の総数は五千四百余人。
 一揆側は総大将に伊船村(鈴鹿市)の豪農、真弓長右衛門を決め、一揆の衆徒の統率に頭取として国府村(鈴鹿市)の打田仁左衛門、その下に補佐頭取として小岐須村(鈴鹿市)嘉兵衛、辺法寺村(亀山市)喜八、大岡寺村(亀山市)江戸屋某(70才)を置いた。
 また各村ごとに一人ずつの頭を定めて評定所を置き、頭取の命令を伝達し実行する作戦本部とした。また三人の健脚の男を亀山城下の様子を探る密偵役に選んだ。一揆は各村から鋸、鉈、斧などの道具を持参する者をまとめ、総数二百五十余人の特別任務の一隊を編成した。
これに五十人ごとに一人の小頭を決め、藩有林に入って樹木を伐採し、かがり火、焚き火の材料としたり、評定所の柵などに使用した。

 そして三千人を小天狗塚に集め、残りを天王山という小さな丘の西に駐屯させた。彼らは竹竿に大平椀を付着させて自分たちの指物とし、村の名前を書いた旗とともに、これを一ヶ所に立てて目標にした。
 また一揆衆は前隊、中隊、後隊と三隊に分け、目標とする大平椀の数を一、二、三、の三種類に区別した。また近くの村の寺院から半鐘を強奪し、鐘を打ちならしたという。
 ところが近くの広瀬村(鈴鹿市)や伊船村(鈴鹿市)、名越村(亀山市)の農民で、まだ成り行きを見守っており、一揆に参加しない者が多い。
 頭取の打田仁左衛門はこれを見て
  『あいつらの家を壊すか焼いてやろうか?』
と各村の頭分に相談したところ、なかなか結論が出ない。そうこうするうちに食料、投げ石道具の製造や調達を急ぐ必要に迫られてくる。
そこでつぎの事項だけ決めた。

 一、飲料水を運搬し貯蔵すること
 一、近くの村から大釜その他炊事用具を徴発すること
 一、投げ石用具(ふりずんばい)を急いで製造すること
 〔ふりずんばい〕とは、端午の節句に農民の子供たちが川を隔て、対岸の相手と石礫を飛ばして、遊ぶときに使う投石具である。投石は子供の遊びにしては危険なので禁止されていたが、ひそかに投石遊びがまだ行われていた。このときの原始的な投石用具の名前である。

 この広瀬野に一揆の農民が集合したとの情報が大庄屋たちに伝えられた。
 そこで野村の大庄屋伊藤兵左衛門、関宿の大庄屋市川善左衛門、小田村の丹次郎の三名は従僕二名ずつを連れ、西富田村(鈴鹿市)の庄屋孫四郎宅にいき形勢を分析した。
 そして孫四郎たちを加えて十二名で広瀬野にむかい、急いでいると、甲斐村の庄屋、庄七と出会った。そこで全部で十五名の偵察隊を組織して広瀬野を目指した。ところが歩き出して間もなく、一揆の先発隊と遭遇してしまった。
  『おい!大庄屋じゃないか!俺たちの邪魔するのか!』 
あっという間に十五人は数百人に周囲を囲まれてしまう。このとき丹次郎と庄七の二人は人一倍の力持ちだったので、
  『こんな無法は許されんぞ!家に帰れ!』
と叫びながら持ち前の豪胆さで相手を叩き伏せ、血路を開いてまず兵左衛門と善左衛門を、囲みから脱出させることに成功した。

 丹次郎、庄七たちは最後まで奮闘して敵を倒して頑張ったが、数に優れた敵に圧倒されてしまい、やがて彼らも負傷して倒れてしまった。
それを見て他の従僕たちは棍棒を振るって一揆の衆を打ち、二人を救出することに成功した。
 この争いの最中にようやく各庄屋、藩役人たちが手下や親戚を集め、総勢四十数人となって到着した。そして一揆衆の中から残りの者全員を救出した。
 このとき庄屋側で負傷した者は八名、農民側廿余人であった。

 一揆の連中も始めての争闘だったので、その混乱は激しくて追撃することも出来ず、ただ悔しがっただけであった。兵左衛門と善左衛門たちは亀山に帰り城の重役に
  『広瀬野に集うもの五千数百人、先頭と衝突し
   怪我人が出ました。』
と急を告げた。また一揆の者も流血を見て恐れたのか、頭取へ
  『村役人を負傷させてしまった以上、亀山から役人が
   捕らえに来ます。それを防ぐ方法は大丈夫ですか?』
とウロウロして報告したという。そのとき頭取の大岡寺村の江戸屋某が
  『広瀬野は天下の兵が攻め寄せても恐れることなし、
   亀山城の全兵が出てきても、これを防ぐことは可能なり』
とハッタリを効かせた。これを聞いて一揆の衆はやや安心し、喚声を上げて広瀬野に戻って廿数名の負傷者を保護し、それぞれの村に送還した。負傷者の家族はこれを見て非常に驚ろき、うろたえたという。

 大岡寺村の江戸屋某(70才)は若いときに江戸に遊び、剣術を学び兵学を究めている。また戦陣では兵を動かし指揮する学も身につけたが、老年になってもその才能を発揮する機会がなく、彼はいつもこれを嘆いていた。
 ところが農民が怨みの行動を起こしたこの機会に、これを煽動し我が才能を満たそうとはかったのである。階級社会の時代ではいくら農民が兵学を修めても、適所に登用される道はなかったのである。

 当時、亀山城主は石川総純だが治安の実務は後見人、石川総徳に任されていた。彼は乱闘に及んで負傷した大庄屋たちの報告を受け、代官の猪野三郎左衛門、杉田藤左衛門たちに
  『その方らは同心五十名を引きつれ、広瀬野に向かうべし』
と命を下し、広瀬野に出動させた。これは兵力を使う前に、まず警察力で鎮圧することが可能、と判断したことによる。
 もっとも農民一揆の鎮圧にすぐ兵力を用いるのは、施政者のとる道ではない。
 命を受けて猪野、杉田らは、まず負傷した庄屋、村吏、従僕たちを安全な場所に収容した。そして広瀬野に近ずいていくと、一揆の偵察に見つかってしまった。彼らは
  『ボーッ!』
と法螺貝を吹き、皆に急を知らせた。それを知った三千余人は竹槍を構えて突進してくる。それをみて猪野、杉田らと藩士同心は、
  「この程度の警察力ではとうてい鎮圧は無理だ」
と知って亀山城に帰ってしまった。

 亀山城内では石川総徳を中心に善後策を図った。
家老の近藤織部(38才)、郡代の大久保六太夫(58才)、代官の奥村武左衛門たちは
  『兵力を用いて殲滅しよう』
と強硬策を主張する。だが家老の石川伊織(42才)は
  『彼らに死に値する罪があっても、我が領土の民である。
   これを殺した後の領土の荒廃をどうするのか、ここは
   農民に人望がある平岩安太夫、生田理左衛門たちに
   鎮撫の説得に当たらせたらどうか…』
と主張した。近藤織部はこれを聞いて反駁する
  『いや二、三百人の兵力で簡単に彼らは鎮圧できる。
   私に任せればやってみせよう』
と言う。あれこれ議論をしているうちに日は暮れはじめた。もう時間がない。
  『仕方がない、ここはいちど近藤氏にまかせよう』
近藤織部は同心と足軽百五十人を集めると、自ら引率して郡代の生田弥兵衛、大目付の馬場彦太夫たを連れ、提灯廿張りに火を入れて堂々と城を出発していった。

 やがて和泉橋に到着すると。そこには一揆の先頭が守っていた。
近藤織部は彼らにむかい
  『直ちに解散すべし』
と通告した。彼は文武兼備の侍として知られた人だが、少し性急に事を運ぶ性格があった。しかし予想どおり一揆の連中は解散に応じない。
そして
  『もう藩のお前らに頼むことはない。美濃郡上一揆の
   顛末を知らんのか!我らもう江戸表に訴え出るだけだ!』
  『ボーっ』
またも法螺貝を吹き鳴らした。この音を聞いて広瀬野方面からは一群が
  『ワーッ!』
喚声を上げて迫ってきた。また天王山にいた一揆の連中は遠く迂回して側面から殺到してきた。そして石礫を和泉碩(鈴鹿市)にむかって飛ばしてくる。この勢いはまったく軽視できなかった。近藤織部も農民らがこの投石機を持っているのは知っていたが、こんなに威力があるとは知らなかったったらしい。
  『いったん城に引き上げよう』
織部たち同心と足軽の百五十人は、石雨の中を急いで引き上げていった。

 広瀬野に駐屯している一揆は、
  『近くの村の連中でまだ傍観しているヤツがいる。
   どうしよう。』
  『そんな卑怯者は家を焼いてしまえ!』
壮年者から三隊の放火隊を編成し、伊船、広瀬、名越(亀山市)の村へ向かった。これをみて傍観していた農民はことごとく一揆に参加してしまった。そして罰として米穀を徴発した。真弓長右衛門の出身地である伊船村やその近くの村村で、真弓の呼びかけに賛同しない者がいたのはなぜか。
 それは恐らく太閤秀吉の検地のとき租税が徹底して行われたか、土地改良で荒地が良田になっているものは妥当だと藩の方針を支持したか、村政が行き届き農民に不平が無くなったのか…、
学者は「この村は他の村より裕福だった」というが。あるいはそうかも知れない。

 このときの一揆の農民は凡庸の人が多く、天狗や妖怪、狐タヌキの神通力を信じていた。真弓長右衛門はそこで一人の老人に金の冠を被らせ、
  『我は天狗の命により汝らを助けるため現れた、
   源太夫という狐なり』
と叫び
  『我は汝らを助ける。一揆は必ず成功する』
と言って、竹藪の中へ姿を消すよう演技を仕組んだ。五千余の農民たちはこれを聞くと一斉に
  『ワーッ』『ボーッ』
と喚声をあげ法螺貝を吹きならした。そして西富田村(鈴鹿市)にむけ動きだした。その勢いはまるで大河の水のようであった。こんな子供騙しのような演出策でも、昨日の庄屋連との衝突で意気が消沈していたのが、一気に盛り上がって鼓舞する効果があったのだ。
 九月十三日夜には一揆の前哨隊は再び和泉端を奪った。

【一揆 二日目】
 明和五年〔1768〕九月十四日.黎明、一揆の連中は川合村(亀山市)の北端に到着し、庄屋の八左衛門を脅かし
  『飯を焚け』
村内の婦女子を動員して粥を炊かせた。それを食べている間に後続隊は西富田村(鈴鹿市)の庄屋孫四郎宅を襲撃、彼が所有している水車を破壊し米穀を奪った。
 そしてここでも飯を炊いて食べている。破壊した孫四郎の水車場に一揆が貼り付けた罪状はつぎのとおり、
  「昨十三日、八十三ケ村が広瀬野に集まった我らの行動を、
   野村大庄屋へ倅の輿惣兵衛を走らせ、知らせたのは
   言語道断。よって八十三ケ村が推参し罰を執行した。
    九月十四日   広瀬野源太夫旗下五千六百人
    西富田村庄屋 孫四郎殿」
そして
    訴訟してまだご褒美の無いさきに
           報いの廻りはやき車屋
と落書きをした。訴訟とは野村大庄屋へ息子の輿惣兵衛が知らせたことを言っている。

 やがて前哨隊と後続隊は合流し、八野村(鈴鹿市)の伊東才兵衛宅に迫った。そして家屋を破壊したうえ家財を預かっていた市郎右衛門を脅し、その家財を屋外に撒き散らし粉砕してしまった。才兵衛の門前で一揆の読み上げた罪状は
  「貴殿、二十年前は平野村で山廻りだった。それが
   この八野村で新田開発の庄屋となり、そのうえ帯刀
   まで許された。これは過分な恩賞であるのに、
   このたびは羽若村目付と相談し、太閤秀吉の検地
   でも課税免除になっている荒地に査定検地をさせた。
   これで領内の農民は難儀迷惑をしている。
   なのに貴殿らは褒美に喜び遊興をしている。
    ここに罰として家と家財を破壊する。
   九月十四日  広瀬野源太夫旗下五千六百人
     八野村庄屋 伊東才兵衛殿 」

 一揆は八野村で再び分かれ二隊になった。一隊は井尻碩に出て進んでいく。そして和田村(亀山市)庄屋の喜兵衛の家に到着し
  『酒を出せ!』
と脅して出された酒を痛飲した。そして勢いをつけると亀山茶屋町に出て、庄屋宿の井尻屋平八方を破壊した。また道具を持った特別破壊隊は、茶屋町北方各家の裏表にある板塀などを破壊していった。
彼らが残した書状には
  「貴殿はこの五年間に酒倉や本宅を新築修繕し、
   二十二両余ほど費用をかけてるので、その分だけ
   許してやる」
など、少し手心を加えて家財を破壊している。

 このころ奉行の生田弥兵衛と香取半右衛門、伴安兵衛、代官の大辻又七郎、小泉利太郎などが、同心および足軽を百余人を率いて猿屋のそばで一揆の説得に当たったが、数に圧倒されて敗走した。
 そして南の三本松から井尻村に至る街道から伏兵を出し、一揆の頭目を逮捕する作戦に出た。
 しかし一揆のほうはこれを察知し、藩士の一隊を見付けると北側の各家の隙間から、北の方に抜け出て羽若村(亀山市)に逃走してしまった。羽若村の庄屋、服部太郎右衛門は一揆の襲来を察知すると、さっさと逃亡して行方が判らなくなった。そこで一揆側は特別破壊隊でもって、服部の邸宅を散々に打ち壊していった。一揆の言い分は
  「貴殿は年も六十を越えて退役するべきなのに、ほかの
   大庄屋たちと結託して褒美目当ての検地をさせた。
   その罪は許し難し」

 つぎに一揆は亀山西町の豪商、鮫屋源兵衛宅にむかった。
源兵衛は一揆が迫っているとの知らせがあったとき、すぐに店舗を閉鎖し門を閉めて青竹矢莱を結んだ。そして近所の人々に
  『今回、米穀買い占めの罪によって藩主から処分を受けた』
と触れ回ってから逃げたのである。隣近所の人たちはこれを信じた。
一揆もこれ信じて鮫屋宅を破壊するのを中止した。
 源兵衛はそのすき間に倉庫を開き、多額の金貨を担ぎだし、山林の間道から津に逃げていった。その途中でもわざと
  『北は桑名、菰野はもとより亀山藩領八十三ケ村の
   全部の農民が一揆に加わっている。これでは桑名、
   菰野、亀山、神戸の各藩の兵力では鎮圧は無理だろう。
   米穀商人の倉庫はすべて一揆に占領されてしまった。
   まもなく津藩領も危ないだろう』
流言を流している。これを聞いた津藩領の米穀商人たち、
  『急いで米を売って逃げる準備をせねば』

 驚いて米穀を投売りしたので米価は下落していった。
すると源兵衛は手代に指図して現金にて米穀を廉価で購入し、それを松阪の米取引所まで運んで成り行きを見ていた。
 源兵衛の放った流言によって米価格が暴落したのに驚き、津藩の藤堂和泉守、久居藩主の藤堂佐渡守は急いで亀山藩に使者を派遣した。
 これらの使者が亀山に到着した事実は間接的に一揆を威嚇した。
 その後、一揆が鎮定したのち米価格が復旧したのをみると、源兵衛は持っていた米を売却し金貨六千両を儲けたという。彼が逃げ出すとき持参したのが三千両だから、一揆で倍額の利益を得たことになる。
この騒動の発端から終焉まで、鮫屋源兵衛の演じた役割は驚くばかりである。

 一揆は羽若村鷺ノ森および亀田野(NTT無線跡地付近)で休憩し隊伍を整えた。そして亀山城下に進んでいった。亀山萬町の白子屋甚八は
  『どうぞこれでお許しを』
と酒廿樽を出して家の破壊を免れた。それを聞いた横町の山形屋伊兵衛は十五樽、東町の伊右衛門は十樽。おなじ東町の某商店も十樽を一揆に提供して難を免れたという。
 このほか東町の魚屋徳左衛門、酒屋の七郎兵衛、魚屋伊三郎も酒を贈り、菓子屋、タバコ屋など十数軒も店舗の商品をすべて一揆に提供し、難を遁れたそうである。
 一揆の連中は頭取の命令で統制のとれら行動をしていたのだが、他領の農民や無頼漢が一揆に混入して乱暴を働き、商店を脅して城下の物資をほとんど空にさせたとある。このときの様子を記録は
  ”火を出せ、茶を出せ、酒を出せ、出さぬと庭の蘇鉄も
   牛蒡抜きにするぞ!とわめく声。山谷にひびき、
   天地もくつがえるかと、おびただし。
   城下の人々色を失いて云々…”


 亀山城主の石川総純の後見人、石川総徳は一揆が迫っているとの情報により、亀山城の諸門を守る手配をした。
大手門先手は榊原権八郎ほか二人の重役が指揮する藩士、大手門後詰は弓組、鉄砲組など。大手門守備の奥詰には西村隆八(33才)がいた。
彼は道雪流弓術の達人、去る宝暦五年江戸深川八幡の千射奉納では、優勝して金廿両の褒美を貰っている。一揆に対して臨時の弓組隊長である。家老の石川伊織は西村隆八と江ケ室門外守備の生田理左衛門に対し
  『故なく農民を殺傷すること無かれ』
と戒めたところ、二人は
  『私に反抗する農民は一人もいませんよ』
と絶対の自信で断言し、弓と矢を持たずに守備についた。
この二人は日ごろから親しく農民に接し、彼らを理解していた。
 その言葉のとおり、一揆の連中が西村隆八の前を通過するとき、被っていた笠を外し、前身を屈して敬礼を行ったという。
 また羽若村から江ケ室門前を通過した一揆の一隊も、生田理左衛門の姿を見ると深深と敬礼を行ったそうである。

青木門と黒門は佐藤喜右衛門ほか二人が指揮する鉄砲、弓組の若干人。
町方火之用心の取締りは町奉行の香取半右衛門ほか。江戸口門は足軽三十人。東町は庄屋大庄屋若干。若山口は物頭と足軽十人余などである。
 一揆は羽若村と亀田野で他領民と亀山領民と判別し、他からの浮浪者や乱暴者で命令を守らない者は、きびしくし場合によっては死罪に処すことにした。これ以降は一揆も比較的統制が守られたようである。
 この日、横町の大庄屋宿の扇屋宗兵衛は米三十俵を差し出し、本屋だけは破壊を勘弁してもらっている。東町の米問屋亀田十郎兵衛は白米五十俵と酒若干を提供して難を免れている。一揆はさらに過料の名目で破壊しようとしたが、略奪だけに終った。扇屋への一揆の言い分は
  「貴殿は大庄屋の推薦で立身したが、これは農民困民の
   涙のせいである。その罪を償うため焚き出しを申し
   付けるものである。神妙に従う姿勢なので罪一等を許し、
   会所だけの打ち壊しとし本屋は許すことにする。
    扇屋宗兵衛殿            郷民等   」

 この九月十四日の一揆は亀山城下だけで三十五石の米を略奪した。
一人一日に一升を消費するとすれば三千五百人。一人が一日に八合を食するならば四千三、四百人分に当たる計算である。これをみると亀山城下町に侵入した一揆の総数は、三千五百人以上から四千四五百人以下であろう。
 この一揆の記録などでは八野村から羽若村に向かった人数は一万人とあるが、これは誇大な数字と思われる。

【一揆 三日目】
 明和五年〔1768〕九月十五日
 亀山城主後見、石川総徳は家老の石川伊織の
  『一揆を殲滅作戦することに絶対反対です』
の進言をよく聞き、彼のこの案を採用することにした。そこで農民に人気のある平岩安太夫と石川伊織の両名を代理とし、大目付の近藤伊太夫、馬場彦太夫を随行させて郷目付の野口郡八、太田喜兵治を案内人として一揆の頭取、真弓長右衛門に面会し、彼らの願いを聞き取るようにした。 野口と太田たちは、一揆の駐屯している鈴鹿川筋の阿野田碩(JR鉄橋あたり)に行く途中、小田村の庄屋善左衛門に遭遇したので、
  『ちょうどよい、先導してくれないか』
と頼んだが、善左衛門は
  『こんな危険な用事は御免こうむる』
両人は
  『万一のときは鉄砲組百五十人ほどを陰涼山の陰に
   伏せてある。このことは誰も知らない。もし異変
   が起きたときは鉄砲を撃つって、我々を保護して
   くれるので安心せられよ』
善左衛門
  『それは二階から目薬というもの。我々が一揆に殺さ
   れてから発砲するのが関の山だ。死ぬのは御免だ。』
  『ここまで打ち明けて依頼しているのに、断るのは重罪人
   である。大目付に引渡して牢屋にぶち込むぞ!』
  『もはや止むを得ない。同行するが、もし危険なときは
   御両人を捨てて真っ先に逃げるが、恨まないでほしい。』
と言って先導を承知した。

 一揆の連中は前日の夕方には阿野田碩に集まり、指物や旗を立てて勢力を近村に誇示した。そして阿野田、菅内(亀山市)などの村村に出向いて強制的に物資を徴収し、これに応じないと家屋を破壊したり放火したりして脅した。
 そして亀山東町の亀田十郎兵衛方から徴発した白米五十俵を碩に運搬し、河原に炊事場を仮設して阿野田の村民を使用して炊事に従事させた。
 十五日の朝はまず阿野田村の庄屋、豊田義右衛門を破壊する計画を練っていた。

 同じ朝、家老の石川伊織、平岩安太夫、馬場彦太夫、近藤伊太夫はじめ総数百十六人、若党三十一人が人形坂に配置についた。
また鉄砲隊百五十人を陰涼寺山の陰に伏せさせた。
 一揆がまだ活動を開始しない朝、徒目付、嶋村享蔵、前川茂十郎、野口郡八、太田喜平治、藤原丹右衛門ら五人は、小田村庄屋の善左衛門に先導させて城主の後見、石川総徳の手紙二通を青竹に挟み、阿野田碩にむかった。
 一揆の見張り番はこれを発見、棍棒で打ちかかってきたが、五人はこれを諭し
  『責任者はおらぬか?殿から直々の御書状を持参
   しておる。どうか受けとってほしい』
現れた一揆の頭取に石川総徳の手紙を渡した。頭取は頭を垂れてこれを拝載し、
  『皆の者、殿の御手紙である。失礼のないように…』
というと、衆のものたちは地に土下座し最敬礼を行ったのである。
この当時の農民は無秩序、無知のようであるが、このような美徳も自然に身につけていた。大目付はまた碩にきて一揆の頭取三名を招き
  『願いの筋があれば家老石川伊織様、平岩様が
   人形坂に出張しておられるのでお取次ぎするが…』
と言うと、彼らは
  『大目付様から進達してもらえるなら差し出します』
そこで大目付の二人は人形坂に戻り家老に復命した。それを聞くと二人の家老は直ちに碩まで馬を飛ばしてやってきた。
  『願い書があれば受け取ろう』

 このとき鉄砲隊の隊長物頭役の三人は、そっと陰涼寺山にきて鉄砲隊に射撃の用意を命じた。
 一揆の頭取は家老の言葉に応じ、各村の頭八十三人が横一列になって全進し、願書を提出した。家老はうやうやしくこれを受け取り床机にもたれた。そして一揆の頭取、小岐須村の嘉兵衛、辺法寺村の喜八が願書の内容を説明した。
  「恐れながら願い奉り候。
   一、猪野三郎左衛門殿 退役
   二、大庄屋は全員    退役
   三、その他の庄屋    退役
   四、年貢、地租の減免
     子九月    御領分村村の惣百姓共
    御上上様               」

これを見て、石川、平岩の家老は
  『願いの主旨はもっともだが、殿や重役と協議の上で
   決められることなので、持ち帰って相談する』
一揆は
  『願書を提出したので〔聞き届ける〕とのお墨付き
   を頂けませんか。これが無理なら我々はまた勝手
   な行動をとることになります。』
と言って、農民一同は喧喧諤諤として反抗の様子を示し、石礫を手にして投石をする様子をみせた。もはやこれまでか…、藩士たちは刀に手をかけて
  『どうしても聞き分けて貰えぬか!』
と大声で叫んだ。その声が陰涼寺山に伝わったらしく、鉄砲隊が山を下って鈴鹿川の北岸の堤防上に整列し、命令一下火蓋を切るべく銃を構えた。
 そのうえ更に人形坂から廿人の鉄砲隊が坂をくだってやってきた。
この様子をみて一揆の衆は河原の砂の上に座り込み、おとなしくなってしまった。
 それをみて大目付馬場彦太夫、近藤伊太夫が受取書を一揆側に交付した。
  「願書は必ず組頭中へ相達するのでその旨承知すべし
    九月十五日   大目付共
    御領分惣百姓共江       」  

 この一揆の頭取の喜八、嘉兵衛が意外に強硬で屈服しなかったのは、すでに死罪を覚悟していたためだといわれる。
このとき案内役にさせられた小田村庄屋善左衛門は、一揆が鎮圧された後に、自分の言葉で書き残している。
  『あのとき私は仕方なしに阿野田碩に行きましたが、
   御上の御書付を一揆に渡したるとき、三千余人が一度に
   土下座をしたるときは、御殿様同様の礼式を受けたるよう
   なる、心持ちが致しましたが、御墨付の一段に立ち至り、
   三千余人総立ちとなり騒々しかりしとき、陰涼寺山より
   鉄砲組百五十人ばかり、えいえいえいと掛け声をしながら
   降りられたるときは、驚きのあまり、逃げ出さんとした
   けれども、歩むことも難しくござりました。
   早腰が抜けたと言うは、この事じゃと思います。しかし
   ながら三千余人の農民に、土下座をさせると言うことは、
   私どもらの家にては、孫子の代まであることでは御座り
   ませぬ。私は他人の知らぬ、恐ろしき目や、よき気持ち
   の事に逢いました。
   いま当時の二人のお役方様にお目にかかりますと、
   御恥ずかしくなります。』

 家老や藩士らはようやく一揆の難を遁れ、亀山城に戻ることができた。鉄砲隊の威嚇が思った以上に効果があったのか、あるいは願い書を藩の重役に受けとってもらった為か、一揆は正午ごろから一村ごとに隊伍を編成し頭分に引率されて村名を記した旗を持ち、鈴鹿川から離れていった。
 どうやら彼らは矢下坂を登って広瀬野へ戻るらしい。

 亀山藩領で農民の動乱が起きたという噂はすぐ近隣に伝わった。
津藩城主、藤堂和泉守をはじめ久居城主の藤堂佐渡守、桑名城主の松平下総守、神戸城主本多駒之助、菰野藩主土方清之助などは、すぐに急使を発して
  『鎮定のためには助力を惜しみません』
と申し入れた。しかし亀山藩では
  ”近隣の兵力を借りて鎮圧したとあっては、我が藩の
   名誉を毀損するばかりでなく、藩に力が無いことを
   意味することになる…”
  『せっかくのご好意なれど、お手前の藩にご迷惑は
   かけられません。我が藩だけで充分に対処できます』
せっかくの申し出を丁重に断って帰藩させた。
このとき菰野藩の使者は
  『我が菰野藩領の浮浪者が貴藩の一揆に参加していると
   聞いています。ならば菰野藩としての責任もあり、我が藩
   は兵を出してこの一揆を討伐せざるを得ません。
   これは亀山藩からの援軍に応じるのではなく、あくまで
   菰野藩だけの判断で兵を出すのですから、決して貴藩の
   名誉を毀損しません。』
と言い残して帰ったという。

 また神戸城主の本多駒之助の家臣、畠山所左衛門という人は、亀山藩の寺社奉行、伴安兵衛と親戚関係にあった。彼は私信を発してひそかに
  『亀山藩の一揆討伐の方針は本当のところどうなのだ?』
と問い合わせた。これは神戸領内に一揆の波及を恐れたためである。
畠山は再三にわたり私使を出し
  『もし一揆が神戸領に侵入したときは、武力で鎮圧
   するつもりだが、亀山藩に異論はないか?』
と聞いている。これは近隣の藩が動乱の波及を恐れ、警戒を怠らなかった証拠でもあり、間接的に亀山藩に援助を打診したのであった。
亀山の町に掲げられていた落首がある。
 これは八野村(鈴鹿市)の大庄屋の伊東才兵衛を揶揄したもの

     時なれや八野の露雨けさ吹く風に紅葉散りけり
     故郷をすてて八野の名主して
            才兵衛過ぎて恥のかきあさ
     錆刀尻から蜂の才兵衛が
            我が身の針と知らぬ間竿
     蜂の尾や我れ針ゆえに憎まれて
            人の軒まで巣をかけにけり
     五萬石寄せて投げたる才兵衛も
            悪い目が出て身代のみて

 羽若村の大庄屋、服部太郎右衛門を揶揄したもの

     常磐木の羽若の森の浮時雨
            木の葉のこらず今日の秋風
     穴のはし覗いて見出す太郎右衛門
            地獄の種の荒れは何ほど 
 豪商、鮫屋源兵衛への揶揄
     五万石呑み込むほどの鮫なれど
            雑魚に負われて骨と皮ばか
     源兵衛は一から六まで張りつめて
            とりくら殻で七ぞ出にける
     鰐鮫の呑みたる者を吐かすれば
            町や家中のみんな中綿
     船頭も呑み込むほどの鮫なれど
            雑魚の思いで道に滅ふる
 大庄屋宿の扇屋宗兵衛への揶揄
     扇屋の要の会所破られて
            地紙はがれて骨はばらばら

 広瀬野の松の枝に下げられていた落首
     武蔵野にあらで広瀬の月見して
            狭き心の広野なりけり
     今宵夜は広瀬の野辺を家桜
            花無き秋に旅寝せんとは
     広瀬野に露を片敷き草枕
            思いを晴らす赤月の鐘

     初雁や広瀬の野辺に咲きにけり
     名月やここもかしこも草枕
     月の野に五千余人の草枕
     夕鴉高く飛びけり天狗塚
     蓑笠の夕日に白し天狗塚

 一揆の総大将、真弓長右衛門の志は天に通じないのか、九月十五日の夜、午後十時ごろから強い雨がしきりに降ってきた。
広い野原に集合していた一揆の衆は、かがり火を焚くこともできず、その寒さは身に染み渡った。そこで近傍の村落に入って雨やどりをした。
 しかしこの混乱に乗じ、老人や虚弱な青年の過半は脱走してしまった。

【一揆 四日目】
 明和五年(1768)九月十六日、
 午前十時ごろようやく空が晴れた。一揆は広瀬野の真ん中に集まり
  『今日は下大久保の大庄屋大久保彦三郎と若松村
   の大庄屋加藤孫兵衛宅を襲撃しようではないか』
と発言する者があった。ところが強硬派は
  『それよりも広瀬野に仮小屋を建て近村から米麦を徴発
し若松村の味噌醤油を奪って持久作戦としたほうが良い。』
あるいは
  『隣藩領土の農民を煽動して一斉に蜂起したほうがよい』
といろんなこと言う。そのとき河芸郡北若松村の庄屋で佐野孫右衛門という者、一揆の攻撃を回避するために酒四石を贈ってきた。
一揆の衆はその使者に神戸藩の状況を問いただしたところ
  『藩士たちは鉄砲や武器を携え、警備は極めて厳重です』
それを聞いた一揆の衆は
  『若松村に神戸領を通っていけない。これを避けて行くと、
   かなり遠廻りになってしまう。行くのは止めよう』
と決定した。一説にはこの孫右衛門の使者が酒を運搬して神戸城を通過するとき、神戸藩士が
  『どこに行くのだ』
と尋問したとき使者は
  『広瀬野の一揆に酒を輸送する途中です』
と正直に答えた。その藩士は
  『もし一揆の連中が若松村に向かう途中、神戸藩領を通過
   したときは、鉄砲で討ち取れと藩から言われている。汝は
   このことを一揆の連中によく伝えるべし。』
と自分の判断で言ったそうである。

 亀山藩の役人で農民に人気があったのは、石川伊織、平岩安太夫、西村隆八、生田理左衛門など。これに反して農民の恨みの的になったのは、大久保六太夫、杉田藤左衛門、奥村武左衛門、西村直八、猪野三郎左衛門らである。
 この恨みを買った人々も決して汚職役人ではなく、新田検地の主旨を農民に理解させ徹底させたい一心、熱心に職務に取り組んだことが裏目となってしまった。
 また一揆を煽動した首謀者の真弓長右衛門も、農民救済を叫んで標榜したが、はたして自分の利害抜きで決起したものか…、
いまとなっては定かではない。彼の先祖は有名な伊船村の竜ケ池を造成した農業振興の功労者である。

 いよいよ亀山藩の鎮圧作戦も決断が迫られる。
亀山城主の後見、石川総徳は大目付の近藤伊太夫と馬場彦太夫を呼び、
  『充分に情理を尽して説得に努めよ。刀、弓矢、
   銃の類は使用してはならぬ』
と言い含めた。そして鉄砲隊百五十人を引きつれて広瀬野に向かわせた。
 二人は広瀬野に近ずくと鉄砲隊を途中に待機させ、少数の従者だけ伴い一揆の中に入った。そして
  『このたびの争乱では津の藤堂様、桑名の松平様、神戸の
   本多様、菰野の土方様から兵力を貸すと申し出があった。
   明日にもこれら諸藩の援軍がきて汝らを撃破するだろう。
   今日まで我が藩は一本の矢も一発の鉄砲も撃たなかった
   のは、領内農民の生命こそ大切なりと信じるためである。
   今日この場で我らに敵対するならば、もはやこれまでと
   弓銃を用いるつもりである。』
  
  『また近隣諸藩の兵力を借りて汝らを討伐すれば、我が
   主君は移封を命じられて、汝らの願いも消滅し、
   八十三ケ村は荒野になってしまい、農民の生命も安全で
   はない。今日の我らの話は嘘偽りではない。汝ら皆と
   よく相談して解散することを勧める。
   しばらく時間を与えるのでよく塾考せられよ』
 それを聞いた一揆は協議のため密集して相談にはいった。
しかも皆はもはや疲労困憊の極みにあった。この間に鉄砲隊はひそかに左右の松林の中に展開し、万一を想定して装弾し威嚇の準備はまったく整った。

 一揆の連中ももはや疲れ果て、過半数の者は文句なく解散することに決めたのである。そこで頭取は
  『大目付様の面前で解散を宣言します。』
と申し出た。大目付は
  『汝らが解散するならば、願書の通り代官、大庄屋、
   目付庄屋などを更迭すると約束する』
一揆の頭取は
  『まことに恐れ入ります。されば解散することを誓います』
と宣言した。
  『よく承知してくれた。それならば我らは安心
   して城に帰ることができる。』
そこで従者に命じ角笛を一声二声吹かせると、それに応じて左右の松林の中から隠れたいた鉄砲隊が出てきて整列した。
 そして整然と立ち去っていった。
 一揆の連中はこの様子をみて恐怖の色をみせた。ところが一揆の中の強硬派の者は
  『あの大目付二人の言うことは策略だ。信用できない』
  『残りの役人を攻撃し、恨みを晴らしてから解散しよう』
と叫ぶ。これに対し軟派の連中は反対する
  『それは自殺行為に等しい暴論だ。この広瀬野に接近
   した神戸藩の領地、高宮、汲川原村はもう鉄砲隊が出て
   いる。これ以上暴発したら我らの運命はもはや死あるのみ、
   そんなことはできない。』

強硬派はなおも
  『若松村からの使者の情報は神戸藩の策略だ。
   我らに恐怖心を起こさせ士気を萎縮させるため、誇大に
   報告させたに違いない。これから若松村に進撃するぞ!』
と叫んで法螺貝を吹いた。軟派の連中はそれを阻止しようと
  『もう止めんか!』
お互いに組みつき大乱闘になってしまった。そのとき一揆の放った密偵が帰ってきて言うには、
  『いま立ち去った大目付と鉄砲隊は、中富田村から西
   に配置されている。また騎馬隊も巡視し要所要所に
   同心も警備している。亀山藩と神戸藩は互いに連絡
   をとり、我らの暴動を詳細に把握している模様です。』
これを聞いて強硬派の連中は驚き
  『我らはもはや周囲を半ば包囲されたようだ。
   もう解散するしかないな。』
とうとう全員が解散することに決したのである。このとき更につぎの申し合わせを議決した。
  一、一揆の頭取で死罪に処せられたときは、
    石碑を広瀬野に建立する。
  二、八十三ケ村の代表は毎年墓前に参集すること。
さらに和歌一首をよみあげ、松の枝に懸けた。
     四の海引くや八嶋も納まりて
           再び帰るおのが家家

 そして声もなく粛々と自分の村に引き上げていった。
二百四十年を経過したいま、この申し合わせはどうなっているのだろうか…。
    
【一揆の終焉】
 明和五年〔1768〕九月十七日
 あれほど人で溢れていた広瀬野の野原も、いまやまったく人影はなく静寂を取り戻した。
 亀山藩は津、久居、桑名、神戸、菰野の諸藩に報告と感謝の使を派遣した。また大目付の馬場彦太夫を江戸に向かわせた。
彼は廿一日に江戸での報告を完了している。
 十一月十一日。
 一揆勢との約束に従い亀山藩はつぎの処分を行った。
 大庄屋  野村伊藤兵左衛門、下大久保村大久保彦三郎、
      若松村加藤孫兵衛、国府村打田庄蔵、
      野尻村打田権四郎の五人を罷免。
 目付庄屋 羽若村服部太郎右衛門、野村伊藤勘兵衛を罷免。
 帯刀庄屋 八野村伊東才兵衛、阿野田村豊田儀右衛門、
      国府村森覚左衛門、原尾村源吾、原村喜兵衛、
      津賀村久太郎の六名を罷免。  
 代官   奥村武左衛門を解任
 奉行   杉田藤左衛門を解任
 郡代   大久保六太夫を解任
 代官   猪野三郎左衛門、西村直八を解任
そし農民に人気のある生田理左衛門、新彦助を作事奉行に任命した。

 明和六年六月十三日黎明、一揆の首魁として伊船村真弓長右衛門、辺法寺村喜八、小岐須村嘉兵衛を鈴鹿川阿野田碩にて斬罪に処した。
また国府村打田仁左衛門は獄中で病死、大岡寺村の江戸屋某も斬に処せられた。
 真弓長右衛門の法名は 〔誓了院光岳常心居士〕である。
 このときの代官奉行たちの墓は亀山市御幸町本久寺にある。
彼らはまったくの無実の罪で解任されたのだが、その辛い思いを忘れないため、墓碑は広瀬野に向けて立てられたが、明治の始めに鎮魂の法要をし、現在の場所に移されたという。


 参考文献   「明和太平記」「亀山騒動実録」