亀の細道
ウォーキングまっぷ
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列車転落事件(関町史より) 関町合併後の昭和31年9月27日、午前7時半、濁流の加太川に列車が転落するという大事故が発生した。 事故の報は列車乗務員から加太線路班、加太駅、加太駐在所、亀山警察署、関町消防団へと一刻を争うようにして伝えられた。 亀山警察署の当直増田友由巡査は早速番乗市雄署長に急報と同時に全署員を非常招集、同じ頃関町内にはけたたましいサイレンが鳴り響き、山内喜久夫消防団長も消防車を途中で乗り捨ててロープやハシゴを手にした団員とともに線路沿いに現場へ急行した。 転落車両は屋根の下まで激流に洗われ、屋根の上には乗客7人が助けを求めていた。 加太線路班の北川工手と杉野副工手長がロープを投げるが思うように届かない。 そのうちに消防団員、国鉄職員各30人が現場に到着した。「がんばれ」「落ちつけ」と激励するが、加太川のごう音にかき消された。 生死の極限状態の中での救出活動は困難を極めたが、その中でも関町加太の山本春光氏は、周囲の止めるのも聞かず単身ロープを身体に巻き濁流に入り3人を救助した。この列車事故で計8人の男女の犠牲者が出た。 関西本線列車脱線水没事故 1956年(昭和31年)9月27日7時20分ごろ 関西本線関・加太間を走行中の亀山発湊町行き列車が、金場トンネルを出て150mほどの地点で土砂崩れに巻き込まれ、客車6両のうち2両目が前後の連結器がはずれ脱線、加太川に転落した。客車は水没、乗客3名は救助されたが、残りの8名(旅客5名、職員3名)は激流に流され死亡した。台風15号が接近中だった。 |
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当時の新聞記事 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
事故のイメージ絵 作:豊田康文 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
加太 牛谷での高圧電流流入火災事故 |
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昭和30年代には家庭の電化が大きく進んだ。 テレビがほとんどの家庭に普及し洗濯機も普及すると電気の消費量もうなぎ上りとなった。 一方、電力会社の供給設備は電灯程度の小規模だった時代のままで、安定供給には至っていなかった。 変電所からの高圧配電線は6600ボルトになっていたが当時は耐えられる絶縁材料もなく裸線であった。 それゆえ樹木や鳥獣の接触による停電も頻発していた。 そのような時代背景の下、加太で発生した集落への高圧電流流入火災事故は全国でも例を見ない惨事で 「起こるはずのない事故が起こった。」と配電にかかわる関係者を震撼させた。 原因は人為的または技術的な理由で本来作動するはずだった変電所の保護装置が機能しない状態となっており電柱のガイシ不良で架空電線の1本が地面につながったままになっていた。 そこへ別の箇所のケーブルの絶縁不良で高圧電流が電柱に流れ100ボルトの電線に高圧電流が流れこんだ。 その結果、何軒かの家屋で一斉に火災が起こり住民1名が感電死した。 引用 文芸亀山 |
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平乃澤城址へのルート |
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屋敷跡の石垣? |
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